小学校と中学校の教育理念の断絶が問題だ

長いけど、引用。

 「ゆとり教育」見直しの焦点になっている「総合的な学習の時間」について、中学校教師の約6割が「なくした方がよい」と考えていることが18日、文部科学省の「義務教育に関する意識調査」で明らかになった。
 準備に手間がかかることなどを理由に挙げた教師が多く、「国語や数学などの学習を重視すべき」という声も中学校教師全体の8割から上がった。これに対し、小学校教師は総合学習を肯定的にとらえる傾向が強かった。文科省はこの調査結果を同日、中央教育審議会・義務教育特別部会に提出、今後の義務教育改革の審議に生かす。
 調査は今春、全国の小学4年生〜中学3年生の児童生徒、小1〜中3の保護者、学校運営に参加する学校評議員、教員、教育長ら計約3万6000人を対象に実施し、約1万8000人から回答を得た。
 それによると、総合学習をなくした方がよいと、「とても思う」「まあそう思う」と回答した中学校教師は計57・2%。「なくさない方がよい」と考える肯定派も含め、全体の84・6%が「教材作成などの準備に時間がかかり、負担が大きくて大変」と感じており、「国語や数学などの学習を重視すべき」(82%)、「教師の力量や熱意に差があり、指導にばらつきが出る」(76・3%)などの声も多かった。
 これに対し、小学校教師の場合は、「なくした方がよい」は38・3%にとどまり、肯定派が否定派を上回った。「子どもたちが楽しみにしている」「自然体験や社会体験ができる」などの意見が目立ち、保護者も中学校より総合学習を評価する割合が高かった。
 一方、子どもたちは、小学生の60%、中学生の46・2%が総合学習を「とても好き」「まあ好き」と回答した。ただ、中学生では「自分の興味関心とは異なる内容が多い」「将来の自分にどう役立つのか分からない」と批判的な声も50%を超えた。(読売新聞) - 6月18日

私見によれば、「総合学習」の最大の問題は、その教育目的が不明確な点にある。何をめざすのかが明らかでない以上、「なくすべきだ」「続けるべきだ」という議論自体、無意味であろう。もちろん、「各学校のまったく自由な創意工夫が求められている」といった制度理念をそこに見出すことも可能だが、その場合には、各学校にそうした自発性を委ねることの現実性が論じられなくてはならない。優秀な教師ならば、自発性にまかせることで有意義な取り組みが期待できるだろうが、はたして教師全体の能力を、そのように高く見積もることは妥当だろうか?
とバッサリ斬ったところで、ここで注目したいのは、「総合学習」評価の小学校と中学校の間における違いである。やはり中学校では「学力」が重視されている。正確にいうと、小学校と中学校では、重視される「学力」の質が異なっているのである。
これが意味することは、小学校と中学校の間における「教育理念の非連続性」である。一見、小学校と中学校とは連続的に接続しているように見えるが、じつは、両者の指導上のプライオリティには、差があると考えられる。そうでなければ、同じ「総合学習」が、これほど異なったかたちで評価されるはずはない。おそらく中学校には、高校入試という課題が課せられているので、学力強化に役立たない「総合学習」の理念は、空疎なものだと映るのではないだろうか。
また、総合学習の問題を離れても、小学校と中学校とが、教育段階として区別されていることの意義と意味は、きちんと反省さられなくてはならないのではないか。たとえば、中学校における「学力」問題から考えても、小学校での教科学習のあり方には大幅な見直しが必要だと思われる。具体的には、小学校で算数と国語の反復学習がもっとなされなければ、中学校の学習内容との接続がうまくいかない。現状ではここの接続は、学習塾によって補完されているわけだが、そういうことでは、公教育の理念という点であまりに問題がある。
にしても、小学校と中学校を分けて、教師の交流もまったくないのは、どういう意味があるんだろうか?あらためて考えてみると、ようわからん。