こんなこと書いてた。


 柳田国男は戦前から戦後にかけて、国語教育・社会科教育・歴史教育などについて積極的に発言している。「国語史 新語編―(序 新語論 新語余論)」「標準語と方言―(自序 標準語の話 方言問題の統一 言語生活の指導 これからの国語教育 話せない人を作る教育 国語教育とラジオ 東京語と標準語 歌と国語(試論) 国語史の目的と方法 標準語普及案 日本方言学会の創立にあたりて)」「国語史論」【ちくま全集21巻】、「国語の将来―(著者の言葉 国語の将来 国語の成長ということ 昔の国語教育 敬語と児童 方言の成立 形容詞の近世史 鴨と哉 語形と語音 国語教育への期待)」「少年と国語―(山バトと家バト ブランコの話 赤とんぼの話 ウロコとフケ クシャミのこと キミ・ボク問題 国語成長の楽しみ)」【ちくま全集22巻】「国史民俗学―(自序 第二版自序 国史民俗学 郷土研究の将来 郷土研究と郷土教育 歴史教育の話 史学と世相解説 現代科学ということ 社会科教育と民間伝承 歴史教育について 民俗学研究所の成り立ち 民俗学研究所の事業について 日本を知るために)」【ちくま全集26巻】
 国語教育についてはどうやらつぎのような理念を持っていたらしい。

一国の物言いが、一つの標準語に統一せられるということは、何よりも望ましいことに相違ないが、それにはぜひとも安全なる方法を伴わなければならぬ。学ぶ者をしてまずあらかじめその一語一語を体験せしめ、常に標準語をもって物を考える習慣を、養わせることが絶対の条件である。言葉が口から外へ出る際に、翻訳をさせ言い替えをさせることが毎度あっては、それがどのように巧みであっても外国語でありまたは音曲である。そういう結果になることを何とも思わず、これだけ時間を掛け材料を取り揃えて、教えてやったからにはこちらには責任はない。あとは相手の心掛けによることと、まずこういったような責任観念が、普通教育の上にも公認せられていることは、悲しむべき国の大きな不幸であった。【26:20-21】

 柳田は、標準語の統一を望ましいことと考えており、言葉の変化の方向性を理想的なものにするために、国語にたいするいっそうの洞察が必要なのだと考えていた。またそれは標準語が方言を追いやっていく過程として捉えられてはいない。柳田は「国民の言語能力」に十分な信頼を置いていた。国民が本来持っている言語能力を把握し、その能力を後押しするような政策として標準語の普及が目指されなくてはならない。だがにもかかわらず、現実の政策がそうでないことに、柳田は危機意識を感じていたのだと思われる。

文章で新たに国の言葉が弘められるもののように、思っているということが最初の誤りだと私は信ずる。日本には奈良朝以来、読者を外国語の知識ある階級だけに限ることを覚悟の上で、外国語をまじえた本を書く人が多かった。…(それと異なって近年の英仏語の実情は、)始めから日本語にするつもりで、一人が筆を執って勝手な字をこしらえて、それが通用するものと心得ていることで、この風はまったく百年来の新現象である。以前の翻訳者はそれでもまだ、第二の外国語に移してから持ち込んだのだが、このごろの連中は漢字もよく知らずに、自分の考えでそれを並べている。それが日本語であり得ないのはもちろん、新語の候補者としてもいたって影の薄いものなのだが、残念なことに国民はそれを判別取捨するの権能を奪われ、また字に書かれたものを承認する義務を教えられている。【26:45】

 標準語の普及と対立するのではない方言への洞察、小児の言語能力への注目、など、柳田の国語観がどのようであったかを考察するための論点は数多い。そこから柳田における国語観・社会観・教育観の有機的な結びつきを再構成することは重要な議論となるだろう。ここではそこまでしないが、最後に、柳田の議論に注目すべき理由についてだけ述べておく。
 それは柳田の思想が近代日本にたいする根本的な内省をともなっているからであり、そういった内省からくる必然として、国語教育という問題設定もまたなされていると考えられるからである。佐藤も指摘するように、「柳田の国語教育という問題設定は、端的に言えば『言論の自由』の問題であり、言語学というより歴史社会学(ソーシャル・ヒストリー)のものである。」【1987:95】。佐藤は柳田が提出した論点を「話しかた」「聴きかた」「思いかた」の三つにわけている。民主主義を深く実現していくためには、従来かろうじて意識されていた「話しかた」の問題だけではなく、「国語をこまかに聴きわける能力」としての「聞きかた」の問題の大切さを認識しなくてはならない。そしてこの「話しかた」「聞きかた」の二つの中間に、疑問をいだく能力としての「思いかた」の問題がある。だがこれまでの口真似・物真似をもてはやす学校教育のなかでは、その能力の意義は認められてこられなかった。こうした問題意識を、柳田は感じていたのである。
 そして、それは柳田の教育論におけるナショナリズムのかたちを指し示してもいる。佐藤によれば、柳田が言語に注目したのは、「〈ことば〉は伝達の道具=媒介であるとともに思考の道具=媒介である」からであり、「それゆえ〈ことば〉というメディアの変動は、伝達様式と思考様式の変動をゆるやかに、しかし深く定義し、人びとの生を拘束する効果をもってかかわりあう」【同上:99】からであった。言いかえれば、柳田は人々の心情を表現するメディアとしての言葉がどのような形式を持つことが望ましいのか、深い認識をもっていたのである。これはナショナリズムを「心情」との関わりにおいて定義したときに、彼の教育論をナショナリズムいう分析視角から見ていくことの、十分な理由となっている。柳田は、「『近代日本語』はどんな拘束力をもって、われわれの近代を規定し、『不幸』をつくりあげてきたか」【同上:99】という問題意識から、彼独自の教育理念を主張し、その理念には近代日本をめぐるナショナリズムが投影されていたのだ。「名詞の増殖」の問題化、「ハナシの様式の歴史的変化」などの論点は、そうしたナショナリズムの視点から整合的に解釈されなくてはならない。
 最後にもう少々。歴史教育については別途考察する必要性がある。また国際連盟委任統治委員会に勤務のためジュネーブに滞在した経験が、帰国後の柳田の論調を変化させたとして、ナショナリズムの視点からその言説を追ったのは小熊『単一民族神話の起源』である。また佐藤は、「敗戦直後、僕が会った多くの人たちの中で七十歳を越えた柳田国男にくらべられるほど、いきいきとした感覚と気力にはずんだ人をついぞみかけなかった」という臼井吉見の言葉を引き、「評伝にとりあげる事実としても重要であろう」【同上:78】と述べているが、たしかに興味深いエピソードである。




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