N響定期公演に行く

自分はまともに社会生活をこなせない欠陥人間であるが、趣味ならば熱心に追求できる。つまりは不良人間なのだが、今日はフィルムセンターに出向いて、豊田四郎監督『夫婦善哉』を観る予定だった。しかし洗濯に手間取ったため、15分前に到着したときにはすでに満員、森繁の演技をまたもや見逃すことになってしまった。
自暴自棄になった自分は、すぐさま渋谷方面へ向かい、N響定期公演に予定を変更することにした(途中表参道で、エルメスの店から出てきたジローラモと鉢合わせた)。本日の指揮者は、アンドレイ・ボレイコ。曲目は、ブラームス/ピアノ協奏曲第一番二短調、フランク/交響詩「のろわれた狩人」、ストラヴィンスキー/バレエ組曲火の鳥」。ピアニストはネルソン・フレーレ。
到着してみると、プログラムがピアノ協奏曲のためか、「ピアノをやってます」といった感じの女子大生がいつもより多い気がした。若い女の子が「芸術って素敵」「いつまでも美しいものに囲まれていたいわ」といった感じで、ツンとすましているのは、なかなかかわいらしいものである。芸術に親しんだからといって素敵にはなれるとは限らないが、でも、そうなれると信じたがっている様子はいじらしく、かわいらしい。
ところで、自分がN響を聴きにいくのは、感動を求めるというよりは、音楽鑑賞の経験値を上げるためである。もちろん感動できればそれにこしたことはないが、これまで感動できたためしはないので、あまり期待はしないのである。今日の演奏も、フランクとストラヴィンスキーは大編成で迫力があり、ホルンやファゴットオーボエのハーモニーも美しいと感じたものの、細部に若干の詰めの甘さを感じた。自分は映画でも本でも音楽でも「自分ならこうするのにな」という視点で鑑賞しているので、音楽を聴いていても、自分の脳で鳴っている演奏の方が美しい場合がある。
帰宅後、ラトル指揮ベルリンフィルマーラー第5番』を聴いた。これまでの愛聴盤はテンシュテット指揮ロンドンフィルだが、ラトルのもまったく違った意味で美しく、細部のニュアンスの豊かさが素晴らしかった。ただ疲れてしまうほど情報量があるので、聴きこまねばならない。
石浦章一『東大教授の通信簿』を読んだ。授業評価アンケートは授業内容の改善につながる、と力説されているが、理系の文章に特有の明晰さを感じて、欠陥人間の自分にはマネできないなと感心した。そもそも理系の明晰な人間は、「自分が欠陥人間だ」などという不毛な問題には立ち止まらないだろう。