『人の移動と近代化』

都議会選挙の日だが、いざこざのせいで自民に入れるのも何だし、かといって民主の候補者は松下政経塾出身で気に入らないので、投票所には行かなかった。投票率は低かったようで、テレビを見ていると公明党の躍進が目立っている。いいんじゃないでしょうか、公明党が第一党でも。パパイヤ鈴木効果。
先週に引き続き、Jazz喫茶に行った。流れていた曲は、次のとおり。Wayne Shorter『Wayning Moments(1962)』、HANK MOBLEY(blue note1568)、Brian Bromberg『Wood2』、◎STANGETZ and GERRY MULLIGAN(and THE OSCAR PETERSON TRIO)、◎Kenny Dorham『quiet Kenny』、Louis Smith『Smithville(blue note1594)』。◎は良かったやつ。
小杉礼子フリーターという生き方』を読んだ。基本的に、新規採用者数が減少しており、若者の就職状況が客観的に厳しくなっているとの認識に立っている。ただ高校生などの就職意識の変化についても言及されており、アルバイトなどの断片的な経験によって職業全体への偏った認識を持ってしまう危険性が指摘されていて、興味深かった。公教育において職業教育を充実させるべきではないかと思う。
中村牧子『人の移動と近代化』を読んだ。これまでこの本を読んでいなかったのは自分のミスであった。明治期から近代が開始するという「近代化仮説」の妥当性が疑問に付されており、社会移動を「事実的な移動」と「移動の見え方」の二面から捉えるべきとの主張がされている。

 この変化の概要をふり返ってみるならば、前近代から近代への転換期前後から、戦後にいたるまでの各移動の変化は、およそ次のように表せる。
 まず事実的な移動(主に世代間移動)のうちの量的な変化は、①江戸時代後期における変動(村落そして農業からの流出))、②明治、大正、昭和初期を通じた相対的安定(無変動もしくは局所的な増加)、③一九三六〜六五年における大変動、④一九六六年以降の再安定化(社会的地位の再生産)という四つの局面の連なりとして表せる。このうち江戸時代後期や一九三六年〜六五年は、世代内移動においても、かなりの変動期であった。(172)

すなわち事実的な移動は、江戸時代後期および第二次大戦前後の一時期に見られるのみで、「明治以前と明治以後はむしろ連続的」、「戦後には移動が収束する傾向さえみられる」のである(173)。

 これに対し、移動の見え方の変化(特に移動する主体の差異性に関する了解が変化したことによる)は、近世において、同一性に関する了解の変化がすでに起こっていたことを踏まえ、明治初頭から始まった。ここでも、変化はいきなり全域で起こったわけではない。まず明治初頭には、農村から都市へ向かう多数の移動が「発見」されるとともに、士族子弟のあいだに、「移動しうる」という新しい了解が共有された。一九〇〇年ごろからは、地主・商店主の子弟が、同様の了解を共有するようになった。この了解は、一九二〇年代からはさらに自作や自小作農層の子弟のあいだに普及し、第二次大戦前後の時期に、ほぼ全域へと広まっていった。そのそれぞれの場面において、発見された移動の多さ、あるいは移動しえないと思われていた移動が「移動しうる」と思われるようになる程度の激しさは、事実的な移動が増える程度を、常に超えていた。(173)

「事実的な移動」よりも「移動しうる」と思われる程度が高かったというのは、法整備や制度改革の効果によるもので、とりわけ学校教育制度が果した影響は大きかったと考えられる。だが本書が明らかにするのは、そうした制度改革のもつ次のような「限定性」である。

 しかし実際には、それらの諸制度の導入によって移動が大きく増加したり、任意の帰属先への流入が起こったという事実は確認されない。四民平等の原則が打ちだされても、学校が整備されてきても、人々の移動は、主として限られた階層間で、多くは社会的地位の再生産という性格をもって、行なわれた。

つまり、学校教育制度が「事実的に」移動の開放性を高める、というのは誤りなのである。たとえば、「移動が量的にも形態的にも大きく変化した大戦前後の一時期」は、「あらゆる階層からの雇用への集中や、農業・自営への揺り戻しが交互に起こった」が、「これはむしろ、戦争によって余儀なくされた転職や、軍需産業の拡大や縮小に伴う労働市場の変動の産物」であり、1960年代ころには「事実的な移動はむしろ不活発となる」のである(176)。

 …本書での分析によれば、学校とはもともと、人々に移動が可能であるとの了解を植えつけると同時に、事実的な移動を抑制する機能をもつ制度である。いわば、一方では人々に野心をいだかせ自由にチャレンジさせながら、他方ではその結果が無秩序・混乱にいたらないよう、その野心を水路づける制度なのである。そのような制度を内蔵する近代日本社会とは、人々に、自らの社会的地位を自らの意思で選んだと思わせつつ、実際には先任者と同じような経験や心性をもつ人材を調達する仕組みを備えることで、大きな動揺や変化から守られている社会ということができるだろう。(176−177)。

完全な開放性が実現されるなら、社会は「大きな動揺や変化」に見舞われるわけで、実はそれが良いことであるのかどうかは、必ずしも自明ではない。政治家の子は政治家、教師の子は教師、ホワイトカラーの子はホワイトカラー、ブルーカラーの子はブルーカラー。これは近代の業績主義的原理からは外れるが、じつは見えないかたちで社会の安定に貢献しているのだ。
なおこの知見をふまえるならば、「階層の再生産」を唱える流行の議論は、批判的検討にさらされなくてはならないことになるだろう*1。とりわけ「学歴をつうじた階層再生産が拡大している」との命題は、「偽」とせねばならない。というのも「社会的地位の再生産」は、大衆教育社会が進展するなかで「見られるようになった」現象ではなく、近代において一貫して「見られてきた」現象であるからだ*2。大戦前後の一時期をとりあげて「現に移動していた」と論じることは、「移動の見え方」としての世間一般の了解図式を無批判に受容している点で問題がある。

*1:学歴がなぜこうした議論を喚起するかについての説得的な説明が、梶田(1988)を踏まえつつ187ページあたりで論じられている。

*2:父階層と子階層との再生産が、学歴を因果的媒介としつつ拡大している、というのは謬見。父階層と子階層の再生産は、高度成長期、自営業を中心に高まった。また大衆教育社会の只中を生き抜いた子階層というのは、データ上いまだ存在していないので、学歴による階層再生産は客観的には見出されていない。くわえてたしかに文化資本というのは存在するけれど、学歴がもっている開放性に注目すれば、公平化が進展していることを示すデータを作り出すことも可能。