『自己内対話』より

SPAを立ち読みしていたら福田和也坪内祐三が、ブログなどで若い人が書き散らすのは、もし彼らが物書きになりたいのだったらあまりよくないことだ、と話していた。表現欲求をギリギリまで抑圧することで、物書きに必要とされる観察力・分析力は鍛えられる。低いレベルでだらだらと書いていては、濃密な自意識が育たない。たしかに、そうかもしれないと思う。
とりたてて書くことがないので、丸山眞男『自己内対話』より引用。

 イデー。
 事実によって事実を批判することはできない。観念によってのみ事実を批判できる。事実によって批判したように見える場合にも、よく見るならば事実から構成した観念に依拠しているのだ。観念を否定する者は、事実を批判する足場を失い、結局目前の事実に押し流される。殷鑑遠からず、戦時中の大多数の知識人を見よ。
 観念はたんなるコトバではない。コトバのフェティシズムは所与のものへのもたれかかりという意味でそれ自体、日本的「事実主義」の変奏曲にすぎぬ。観念に深く沈潜するほど、ひとはそれを的確に表現するコトバに苦しむ筈だ。いわゆるイデオローグは観念過多症ではなくて逆に観念貧血病患者であり、コトバや用語に惑溺して、その奥にある観念を凝視する能力を失った人間なのだ。(67)

「感覚」だとか「感性」だとかを軽々しく口にする人は多いが、そういうのは大概ペテンである。といって、ずるずるべったりの「事実主義」もまた、たしかに問題なのである。それは、感性至上主義が必然的に「事実主義」を導くことを考えても自明なことだろう。