『「戦艦大和」と戦後』

seiwa2005-07-15

吉田満文集『「戦艦大和」と戦後』(ちくま学芸文庫)。
吉田満の散文には、高い評価があたえられている。実際、素晴らしい文章だと思う。精神の緊密な働きが、文体へとそのまま結晶しているからである。では、吉田が精神を緊密に働かせなければならなかったのは、なぜなのか。おそらく、戦争という剥き出しの不条理において、「生」の意味を、「死」という虚無の地点から組みたてなおす必要に迫られたからではなかったか。
「『戦艦大和の最期』をめぐって」という小文のなかで、吉田はこう語っている。

 ――この作品の中に敵愾心とか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少なからず含まれていることは確かである。この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのまま描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最期の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。(略)
 このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず召集を忌避して、死刑に処せらるべきだったのか。あるいは極めて怠惰な無為な兵士となり、自分の責任を放擲すべきだったのか。
 戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを、教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然過ぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような世界を、愛好し得よう――。(253−254)

戦争という現実を否定しさるのではなく、戦争という現実から出発することのほかに、戦争に対する反省はありえない。戦前と戦後に安直な分断線を引き、その現実を過去のなかに封じ込めることで安心するのではなく、現実はつねに不条理を潜在させており、見えない暴力は「戦後」においても変わらず持続していることに、私たちは自覚的でなければならないのである。

 …戦争否定の言動が、その意志さえあれば戦時下でも容易に可能であり、当然に為さるべき行為であったとするキレイ事の風潮が、敗戦後の日本社会に瀰漫した。そのことが、戦後日本に大きな欠落を生んだのではないか。あれほど莫大な犠牲をはらったにもかかわらず、日本人が敗戦の事実からほとんど学ぶことが出来なかった有力な原因が、そこにあるのではないか。戦後派の青年たちが、「平和」への努力がいかに厳しい試練であるかを見落としがちであり、世界の青年に伍して自立が遅れているのも、そのことと深くかかわっているのではないか。(255)

「死」という虚無の地点から見えるだろう「現実」は、観念による図式的整理などでは収まりのつかない厄介さを抱えていたことは、間違いない。だがそうした感受性は、「戦争」という圧倒的な「現実」を経過してもなお、戦後日本社会に定着することはなかった。