良質だがやや生真面目な左の本

山口二郎『戦後政治の崩壊』をパラパラとめくってみる。
小泉政権の肯定的評価についてはこんな感じ。

 筆者は、リスクの個人化という小泉改革の改革路線には反対である。しかし、自民党・官僚連合体が長年築いてきた裁量的政策によるリスクの社会化の仕組みを一度は解体しなければ、公正なリスクの社会化政策を作り出すことはできない。その意味では、小泉政権に旧体制の解体屋の役割を期待した。
 経世会型の政治手法では、族議員や官僚が、地域や組織の欲望のおもむくままに、効率や採算を無視して政策を推進してきた。これに対して、善意に解釈するならば、小泉は一定のルール、基準に基づいて政策を見直すことを図ったといえる。その際の基準は、収益性や効率性という市場経済における基本的なルールである。…(111−112)

で、小泉政権の否定的評価はこんな感じ。

 …いまや自公連立政権という権力者がその気になったら何でもできるという状況である。立憲主義とは、権力を約束事やルールに基づいて動かすという原理であるから、権力者が約束を守り、論理を重んじるという態度をとらなければ、この原理は成り立たない。しかし、小泉政権ほど論理を軽蔑し、ルールを無視する政権はない。小泉首相自衛隊の運用をめぐる憲法問題について、憲法解釈を神学論争と呼び、野党から追及されると最後は「常識で判断しよう」と言って、論理的な説明を拒否した。所詮あらゆる法律論議は神学論争の性格を持っている。たとえ抽象的で煩瑣な議論であっても、政府は何をしてよいか、何はできないかということを論理的に明らかにすることが重要なのである。最高権力者が常識を持ち出して自らの行動を正当化できるのなら、そもそも憲法や法律は不要である。(152−153)

でも、小泉の後がつづかないところが問題なわけで、それは自民党のあり方が、大きな転換点に差しかかっていることと関係しているわけです。

 …要約して繰り返せば、自民党という政党は、利益配分、各種組織団体の欲求を充足すること以外に、あまり政策を持っていない。権力を分かち合い、政権を持続することだけで結びついた政党であって、具体的な政策に関しては合意がない。また、選挙を戦うための組織や資金を政治家個人が調達するため、次の選挙に有利だと思えば党中央の方針に平然と反対し、支持者の歓心を買おうとする。…
 ただし、利益配分政策が行き詰まり、利益に反応する従来型の支持者に代わって、首相や政党のイメージに反応する流動的な有権者の比重が高まれば、事情は変わってくる。二〇〇三年の総裁選挙の際に橋本派が事実上分裂したことは、その兆候である。強固な地盤を持たない中堅や若手の政治家が小泉首相のイメージに自らを重ね合わそうとしたことは、自民党においてリーダーの求心力が強まりつつあることを意味しているのかもしれない。(146−147)

イメージ重視となると、亀井はダメでしょ、平沼はどうなの?、額賀福志郎?ってな感じで、なかなか決まらないのであるが、ああ、そういえばあの人は人気が高いんじゃないの、ってことで…。

 一九九〇年代後半から、政界では世代交代が急速に進んだ。その中で特に目立つのが、自民党内の二世、三世議員である。これらの政治家は、戦後教育を受けながら、戦後民主主義に対する不満を政治的動力としている。戦後民主主義の下で日本は半人前の国家であり、国民としてのプライドが持てなかったというのが、彼らの戦後に対する認識である。そして、憲法や安全保障に関する戦後枠組みを見直すことに、政治家としての使命を見出している。彼らをアメリカのブッシュ政権を支えている新保守主義者(ネオコン)にちなんで、「日本版ネオコン」と呼ぶとすれば、安倍晋三自民党幹事長と石破茂防衛庁長官はその代表である。(49)

この世代の政治家を精神分析すると、こんな感じ。

 これらの二世、三世議員は、政治家の家に生まれ、何不自由なく育てられ、親の遺産を相続して国会議員になった。こうした安易な生き方に対する負い目のゆえか、彼らは政治家として大きなプロジェクトに取り組もうとする。別の面から見れば、第一世代が取り組んだ貧困や地方の遅れはほぼ解決され、彼らは欠乏感のない政治家である。したがって、利益配分によって支持者を喜ばせることよりも、より高邁な課題に取り組むことによって、自分自身が先代や先々代の政治家に匹敵する存在であることを示そうとする。(50)

こんな風に著者が突然抑制が効かなくなってしまうところが、本書独特の味わいのひとつ。
さて、著者は最後の方で、政治に関する情報公開をすすめ、政治家や官僚に対抗する市民エリートを育成していかなければならないと語っている。いわれなくてもそういう方向には進んでいくだろうと思うが、はてさて、それでポピュリズムを乗り越えられるかは、楽観できないところだろう。