大衆

代議制民主主義の意味について西部邁先生語る*1
人々(people)には「庶民」の要素と「大衆」の要素がある。
「庶民」というのは、伝統に埋め込まれた世間知を持って生きる人間の姿をいう。
「大衆」というのは、メディアなどの影響によって一知半解の知識を振りまわす人間のことをいう。
ほんらい代議制民主主義とは、「政策」には不案内だが、世間知に裏打ちされた「人格」への評価能力をもつ「庶民」が、身の丈にあわない政治の仕組みを、代表者に委ねる政治制度であるべき。
ところが「大衆」的側面が「庶民」の側面をますます凌駕しつつある今日、代議制民主主義は「大衆民衆主義」に堕してしまっている、というのが西部先生の診断である。
オルテガの述べるごとく、「大衆」はみずからの万能を信じて疑わない。

*1:本日のMXテレビにて。「ニーチェという気違い学者がいたんですが、小室先生なんかよりもはるかに気違いで…」との西部発言あり。なお談志の若い弟子の風吉がやめっちゃったらしい。西部先生は、「談志師匠のような強い放射能を発している人のところに来てしまったのが、風吉の先見の明のなさだけど、でもその放射能で死んでしまわないうちにやめちゃったのは、ある意味で先見の明だったかもしれない」と詩的に語っていた。しかしちょっとショックだな。見所があったのに。