広島への原爆投下から60年

今朝のMXテレビで談志師匠がおっしゃっていたことだが、「戦争を反省するったって、もし勝ってたら、それでも反省してるんですかね?」ということだ。
「戦争は悲惨、二度と繰り返すべきではない」というのは正しいのだけれど、そうした反省が生まれたのは、戦争に敗北したからではないのか。
つまり、「戦争に敗北したみじめさ」と「戦争体験そのものの悲惨さ」が、どこかで重なっているのではないか、ということである。
もし「戦争に敗北したみじめさ」がなかったとしたら、「戦争体験の悲惨さ」が別様に解釈されていた可能性は高い。
そう考えると、「ヒロシマ」=「平和の象徴」というのも、じつはどこかに思考の飛躍があることがわかる。
たしかに原爆がもたらした災禍は悲惨というほかないものであり、それは「倫理的な悪」を露出させた出来事だった。
しかし、そうした「倫理的な悪」は、そもそも反省の対象になりうるものだろうか?
もちろん、戦争に巻き込まれた人々がそれぞれに「倫理的な悪」に向き合ったという事実はある。
だが、戦争自体は「倫理的に遂行される」ものではない。
戦争は、倫理的なものである以前に、さまざまな作為の積み重ねのなかで遂行されるものなのである。
だとすれば、「倫理的な反省」などというもの以前に、そこで積み重ねられた作為を理知的に「反省」することが必要だったのではないだろうか。
ヒロシマ」を象徴的に祭り上げるのではなく、そうした「理知的な反省」こそが「平和」への確かな道ではなかっただろうか。
「戦後」という時代はどうも「倫理的な反省」ばかりが注目され、「祈り」だの「願い」だのといった(空虚なものになりかねない)反省にかたよっていたような気がする。
「広島に原爆が投下されたから戦争に反省する」というのも結構だが、「倫理的な悪」自体は、殺人現場だって、いじめの現場にだって、どこにでも生じうるのだ。
「戦争」を「倫理的な悪」の代表のように考えるのは、「戦争」に対しても、「倫理的な悪」に対しても、思考停止(=想像力の貧困)を意味しているかもしれないのである。
そして繰り返せば、「倫理的な悪」とは、それほどたやすく反省の対象となしうるものなのだろうか?
「戦争に勝利していたとしても、戦争における『倫理的な悪』を感受できただろうか」との自問をなしうる者のみが、ほんとうの意味で倫理的でありうると思う。