女中の白足袋を盗む江藤淳、がやっぱり好きな私

「なつかしい本の話――『谷崎潤一郎集』」には、幼い頃の江藤淳の甘美な体験がいくつか記されている。

谷崎潤一郎集』のなかで、そのころ一番刺戟的に感じられたのが、このような箇所だったというのは、どういうことだったのだろう?描かれている女の容姿にもまして、私には、「……大島の亀甲絣の綿入の裾から……少し垢の着いた、弾ち切れんばかりに踝へ喰ひ込んだ白足袋のコハゼが一枚壊れかかつて居るのを見ると、……」というような描写が、ふるいつきたいほど色情を煽るように感じられたのである。
 私は、それ以後、あるやましい心を抱きながら、女中たちの足許を盗み見るようになった。彼女たちの素足は少しも魅力をそそらなかったが、それが「弾ち切れんばかりに踝へ喰ひ込んだ白足袋」におおわれていると、にわかに心が妖しく躍った。
……
 そのうちに、私は、盗み見るだけでは満足できなくなって、現実に彼女たちの白足袋を盗むようになった。盗んでは、それを納戸の一隅の「秘密」の場所に隠しておく。それはほとんど説明することのできない奇妙な盗みであったが、私にいい知れない陶酔をあたえる行為にちがいなかった。
 向こう側の世界にいる“女”というものの象徴を、ひそかに自分の世界に運び入れてしまう。それは、世界を交叉しているという意味で禁忌に触れ、盗みであるという意味で二重に禁忌を犯していた。思えば、花やの白い手の甲に焼火箸を押しつけていたとき、私は、自分を十重二十重にとりかこんでいる禁忌の網の目を、なにかで破りたいと感じていたのだったかも知れない。この無意識の、盲目的な衝動に、形をあたえてくれたのが『谷崎潤一郎集』であった。(411−412)

私は、こういう幼児的なこだわりを文体に結晶させてしまう江藤淳がかなり好きなのであるが、それは私自身が幼児的なものに憧れ、江藤的な少女趣味をいくぶんか共有しているところから来るのかもしれない。オタクとは違うけれど。
なお野暮な解説をしておけば、江藤が性的なものや禁忌なものに興味を抱くのは、戦争によって信じていた意味世界(コスモス)が、彼の裕福な生家とともに没落し、解体していったという体験があったからである。秩序はつねに相対的であり、そこには確固たる基盤など存在しない。そのような断念を抱えてこそ、安定した秩序がもたらす安息にまどろむことへの官能もあるわけである。禁忌と官能が表裏一体であるとはよく指摘されることだが、禁忌によってもたらされるコスモスの崩壊感覚こそが、個人の可感的現実とコスモスとの完全なる一致を、つかのま夢見させることができるのである。
なお、生家の没落という現実のなかで、中学に入ってからの江藤は、家長としての役割を意識するようになる。だが同時に、当時引っ越してきた十条銀座商店街(!)において、江藤は同世代の女の子にたいする性の芽生えを自覚しつつ、伊藤静雄の詩集に出会い、文学への道を決定づけられることになるのである。秩序を厳格に志向しつつ、詩の甘美な世界に陶酔していた江藤は、やはりコスモスの崩壊感覚にあまりにも敏感な人間だったことがよくわかる。このことを書いたエッセーは極上なので、近々引用することにしよう。