ルソーのことが少しわかる

昨日も述べたことだが、個人は、可感的世界と概念的世界とを同時に生きている。これは感性と悟性の区別に対応するものであるかもしれない。いずれにせよ、この区別が、動物と人間とを隔てる最大の標識であることは明らかだろう。「パンツをはいたサル」理論だが、これによって人間は、自然のコスモスに調和して生きることが不可能になり、まったく恣意的な新たなコスモスを創出するようになるのである。そして、この新たなコスモスを可能にするものが言語であることも、もはや自明の事柄であろう。異なる言語間での意味的対応は、ハードな物理的実体によっては保証されない、という知見は、構造主義の根本的発想となっている。
この事実をふまえれば、ルソーが文明社会について矛盾する評価を下していたことの意味が、おぼろげながらも見えてくることになる。ルソーは、文明社会の進展が社会の悪を増大させると考えていたが、しかし、文明社会とは別の社会を構想し、それの実現を目指したわけではない。われわれが生き抜くべき場所はやはり文明社会以外にはないのであり、それゆえにエミールは、社会から保護された場所で教育を授けられ、その後、社会への船出をめざすべく育成されるのである。ルソーが文明社会を単純に否定していた、とみなすのは誤りである。むしろ、言語によって形成される意味世界、つまり社会が、その論理をどのように組み換え、どのような展望を持ちうるかということが、ルソーの直面していた課題だったと考えるべきではないだろうか。
その意味で、『社会契約論』の構成はきわめて興味深いものといえるだろう。ここでルソーが想定する自然状態とは、人間社会に特有のコスモスを剥ぎ取った、仮想的な状態のことである。いわば動物に近い状態だといってよいだろうが、こうした出発点から社会が構成されるさまを理論的に描き出すことを通じて、かれは文明社会の新たな展望を見出そうとしたと考えられるのである。そして悪名高い「一般意思」の概念だが、これは人間の概念的思考によって作り出されるコスモスが、いったん出来上がってしまうと、個別の人間自身にとっても外部的なものと映ってしまう、という事実に対応した概念だと考えてよい。これはDURKHEIM流にいえば「社会的事実」の概念であるが、個別の人間を超えた事実に、それにふさわしい規範的含意を込めるべきだというのが、ルソーの意見だったのである。
などと、断言しまくっているが、嘘だから。信じないで。