『人類の知的遺産60 デューイ』

鶴見俊輔著。大変面白かったのだが、当惑も感じる。
概念が現実を恣意的に切り取ることについての感受性などは、Durkheimとも共通する部分はあるのだが、いかんせん思想的深みが足りない。そう思ってしまうのは、プラグマティズムアメリカに独自な生活様式のなかから生まれた、生活者の思想だからだろう。鶴見によると、第一次世界大戦あたりを境に「前期プラグマティズム」と「後期プラグマティズム」とを区別することが可能であるということだが、「前期プラグマティズム」はほとんどアカデミズムや哲学研究者とは無関係な場所において発生した思想であるという。その核となるのは、次のような考え方だ。

われらの概念の対象がけだし行動への影響を有するいかなる効果を持ちうるとわれらが考えるかかえりみよ。そうするならば、これらの効果についてのわれらの概念こそは、その対象物についてのわれらの概念の全部である。(パース、1871)(35)

鶴見はフランクリンを取り上げて、彼の実験的精神のなかにプラグマティズムの萌芽を見出しているが、たしかに後発近代国としてのコンプレックスが形作ったともいえるドイツ観念論の体系性は、そのままで役に立つかどうかは疑わしく、ましてやフロンティアで生活を広げ、維持していくことになったアメリカにおいては、別種の思想が芽生える必然性は十分にあっただろう。とはいえ、デューイの思想を検討してみると、概念の適切な使用に留意する実直さこそ感じるものの、それだけというか、いかにもナイーブなものに感じてしまうことも事実なのである。もちろん鶴見氏が日本の非民主主義的(=現実から遊離した抽象的)思考様式に対抗するために、プラグマティズムに注目したことは十分理解できる。しかし、デューイを読む必然性、というのはそれだけでは弱いように思ってしまうのだ。当たり前のことほど大切なのは、その通りだとしても。
なおデューイ自身は、「前期プラグマティズム」と「後期プラグマティズム」の橋渡し的役回りをはたすことになった。とくに「前期」の思想については、彼がヘーゲル哲学をはじめとするドイツ哲学研究を出発点としていたために注目するのがおくれ、きわめて長寿であったおかげで、その後の発展が可能になったという面がある。しかし、ここにも細かい違和感を表明しておきたい。私見では、ヘーゲル哲学を捨ててプラグマティズムへ、という道すじには若干の疑問を感じる。すなわち、ヘーゲル哲学にはたしかに壮大な体系性があるけれども、彼の論理学自体は、ヤコブベーメ存在論を下敷きにしたものであり、それはむしろ概念と現実との結びつきの無限の可能性についてきわめてセンシティヴなものであった。つまり、ヘーゲル哲学にもプラグマティズムの可能性は先取りされていると考えることもでき、心理学などの科学主義に依拠したプラグマティズムの方が、むしろあやしい部分が多いと考えることもできるのである。
否定的な印象ばかり書いてしまったが、次回紹介する機会には、プラグマティズムの良い所に着眼することもできるとは思う。