「人間性の二元性とその社会的条件」

社会を理解するうえで、なぜ宗教現象に関心が払われなくてはならないのか。それは、「網野善彦」のメモでも書いたとおり、人間社会が本質的に「聖と俗」の二元論によって成り立っているからである。そして、この「聖と俗」の反映を個人のうちに認めようとする場合、個人の生理的条件を「コスモスの残余」とし、主にロゴスによって構成される部分を「コスモス」と把握することが有効である。もちろん、「コスモスの残余」は、「カオス」へと向けられた潜勢力を保持している。

社会ガクは自らを、諸々の社会についての科学であると規定しているが、社会ガクがその研究の直接の対象である、人間集団をとりあつかうことは、最終的にはこれら集団の窮極の要素である個人を把握することなしにはできない。なぜなら社会は、個人意識の中に浸透していき、それを「社会の姿に似せて」型にはめることによってのみ、構成させることができるからである。それ故、極端に独断的な規定はしたくないが、われわれは確信をもって、われわれの精神的状態、特にその最も本質的なものの多数が、社会的起源をもっているといえる。……文明は人間をして今日の人間たらしめるものであり、人間を動物から区別するものである。人間が人間であるのは文明化されているからにほかならない。文明の依存する原因や条件を探求することは、人間の中における最も人間的特徴たらしめるものの、原因と条件を探究することである。(250)

「文明」というのはコスモスであり、これは自然的条件とはまったく別の論理で形成されるものなので、「文明の依存する原因や条件を探求すること」、すなわち「人間が何によって形成されているかを説明」することは、「歴史的分析によるしかない」。Durkheimはこうした人間の二元性について、「一方に感覚と感性的傾向があり、他方に概念的思考と道徳的活動がある」とし、後者についてはこう述べる。

これに反して、概念は常に多数の人びとに共同である。それは言葉によって構成されるが、言葉の語彙も文法もともに個々の人格の作物でもなければ所有物でもない。それは常に集団的な練成の努力の所産であり、それを用いる匿名の集団体を表現するものである。(253)

そこで、この二元性がもたらす、人間心理の内的矛盾に光を当てることが重要な作業になるわけである。これは極めて文学的な作業でもある。

…われわれは概念によって考えることによってしか理解することはできない。しかし、可感的現実は自発的に、それ自体で、われわれの概念の枠組の中にはいることができるようには構成されていない。現実はそれに抵抗する。そして現実がそれに従うようになるには、いくらか現実に暴力をふるい、あらゆる種類の骨の折れる作業に従わせることが必要であるが、これらの作業は現実が精神にとって同化しやすいものとなるよう現実を変質せしめるのである。…われわれはそれ故、事物を理解しようと思えば、一部分その生命を感じることを断念せざるを得ない。この生命を理解することなしに、生命を感じることはできなくなる。もちろん、われわれは時には、適切に現実のすべてを表現できるであろう科学を夢みることはある。しかしそれは理想であって、それに際限なく接近することはできるが、到達することは不可能である。(255)

可感的現実と概念的思考との内的矛盾は、パスカルのいう「天使であり、獣でもある」人間に、絶えまなく苦痛をもたらすことになる。「なぜなら、われわれの本性の一つだけに従っていけば、必ず他方が損なわれるからである。われわれの悦びは決して純粋なものであることはできない。そこには常にいかほどかの苦しみがまじっている」。つまり、かりに突然金持ちになり、可感的現実における安楽がいくら可能になったところで、それが概念的思考と矛盾するかぎりは、やはり幸福感はもたらされないということである。また、概念的思考のレベルで追究される幸福も、どこかで可感的現実における充足感とは乖離するようになり、まったき幸福というのはありえない幻影でしかないのである。
で、この人間の本性の二元性が、すべての宗教における「聖・俗」の二元性と、密接な関係をもっていることになる。というのも、「神聖な事物」というのは、「われわれのうちから生ずるのではなく外から強制される特異の力に導かれ、方向づけられ、誘導されるように感じる」ものであり、それゆえ「尊敬と畏怖の感じ」をともなうものでもあるのだが、あきらかにそれは社会的生活に源泉を持つものだからである。

それらの事物は(=シンボルをつうじて物的対象に固定化された神聖な事物?)は救いの力として尊敬され、畏怖され、求められる。それ故、これらは、われわれの肉体的個体にしか意義をもたない世俗的事物とは、同じ次元にはおかれない。それらはこれら世俗的事物とはきりはなされる。われわれはそれらに対して、現実全体の中で別の場所を指定する。われわれはそれを分離する。この徹底した分離こそが、聖なる性格の本質なのである。(264)

つまり、必ずしも合理的ではない集合表象を崇拝する宗教は、その不合理性を人間性における概念的思考の領域から導いている。それが人間の本質に根ざしたものであるならば、社会の本質もまたそこに見出されるのではないか、というわけである。概念的思考は、自然的なコスモスとは独立して成立するために、恣意的な存在基盤しかもつことがないが、それは集合的沸騰の間歇的出現をとおして、聖なるものと俗なるものを区別しつつ、社会というものの本質的あり方を指し示すものなのだ。というか、構造主義もシステム論も全部ここにありますね、って思う。