ボードレール

ボードレールワーグナーの音楽に感じた「かなり奇異な性質の、ある感情」。

…それは、理解すること、わが身を浸透され侵入されるにまかせることの誇りと享楽であり、本当に肉感的な逸楽、空気の中を上昇したり海の上を浮き流れたりする逸楽にも似たものです。そして同時に音楽も、生の誇りに息づく折々があるのでした。全般的に、これら深みのある諧調は、想像力の脈拍を加速するああした興奮剤に似るように私には思われました。…(342)

ローエングリン」(だと思うが)の演奏会を経験したボードレール

 いかなる音楽家も、ヴァーグナーほどに、物質的および精神的な空間と深さとを描くことに秀でてはいない。これは、一人ならずの精神、それも最上の精神たちが、一度ならずの機会になさずにはいられなかった指摘である。彼は、微妙な漸次的移行を用いて、精神的かつ自然的な人間の裡にある過度なもの、涯しないもの、野心的なもののすべてを訳出する術を所有している。時として、この熱烈で有無を言わせぬ音楽を聴いていると、夢想によって引き裂かれた暗闇の背景の上に、阿片の産み出す目くるめくばかりの想念の数々が描かれているのを見出す思いがする。
 その時以来、すなわち最初の演奏会以来、私は、これらの特異な作品の理解にさらに深く分け入りたいという欲求に憑かれた。私は一つの精神的手術、一つの啓示を受けたのだ(すくなくとも私にはそういう風に思われた)。私の逸楽はかくも強くかくも怖るべきものだったので、私は絶えずそこに立ち戻りたいと望まずにはいられなかった。私の感じたものの中には、確かに、ヴェーバーベートーヴェンが私にすでに識らしめてくれていたものの多くが入っていたが、しかしまた私の力では定義できぬ何かしら新しい物があって、この無力感が、ある奇異な快楽の混じった怒りと好奇心とを私に惹き起すのだった。何日も何日もの間、いや長い間、私は自分にこう言った、「いったい今晩はどこへ行ったらヴァーグナーの音楽が聴けるだろうか?」と。(289)

ボードレールによればワーグナーの音楽は「稲妻をはらんだ荘厳さ」が落下し、「悪所に雷の落ちるがごと」きものだったという。
なお、ボードレールは詩人なのに批評家で、「悪の華」とかの詩も理屈っぽくて分かりにくいらしいのだが、じつはワーグナー自身も、音楽家でありながら著作活動を精力的に展開している。同じような人だったのだろうか。