江藤淳による十条銀座商店街

時代は戦後となり、稲村ヶ崎から十条に移転してきた江藤淳は、精神面において「成熟」を引き受けなければならなかった。

 そんなわけで、私は父と二人でひと足さきに東京に移り、男世帯を張ることになった。銀行の社宅は、北区十条仲原町三丁目一番地にあり、十二坪ほどの急造のバラックにはまともな壁がなく、そのかわりにテックスが釘で打ちつけてあった。後年のことだが、私はこの社宅が、銀行の内部で“炭住住宅”と呼ばれていたことを知った。(430)

江藤は、「とにかく、私はいろいろなことを覚え、いろいろなことに馴れなければならなかった」という生活のなかで、十条での生活に次のような感覚をおぼえはじめたという。

 しかし、とまどうことはあったけれども、この変動は、私にとって一種の感覚の解放をもたらしてもいた。当初、私は、緑があまりにも少い場末の街に、ほとんど本能的な嫌悪を感じていたが、十条銀座の商店街を歩いていると、いつの間にか官能的な陶酔に似たものを感じている自分に気がついて、おどろくことがあった。
 それは人であった。この街の周辺で暮している工員や、国鉄の職員や、少商人やらの家族たちであった。こういう人々は、鎌倉には――ことに、稲村ヶ崎にはいなかった。ことに、この街を行く女たちは、たくましく肉感的な足を踏みしめて、十条銀座を歩いていた。真夏の太陽の下で、彼女たちの甘ずっぱい汗の匂いを嗅ぎながら、私は、そのなまなましさに昂奮していた。(431)

都立一中の中学生だった江藤の眼に映った、同世代の女たち。

 だからこそ、彼女たちは魅力的だったのかも知れない。同じ年頃なのに、彼女たちの多くはすでに働いていて、給料というものをとっており、まだ推さの残っている唇に口紅をつけ、髪にはパーマネントをかけたりしていた。銭湯に通う彼女たちは、髪をタオルやネッカチーフに包んで大人びた襟足を見せ、素足に紅緒のちびた下駄をつっかけて、すれちがいざまに自分たちの魅力を誇示するようなながし目を、私に投げかけた。
 つまり、彼女たちは、すでに“女”をくっきりと顕しはじめていた。その臆面もなさも趣味も、ほとんど下品であったけれども、下品であるだけに私には一層刺戟的に感じられるのであった。(432)

この「嫌悪と陶酔の混淆した感覚」は、すんなり現実に適応している彼女たちの「成熟」が、江藤に喚起させた感覚であるに違いない。かれは「成熟」をつよく希求した。「官能的な陶酔に似たもの」は、そのような「成熟」のあり方を目の当たりにして、感じとられたものだろう。
けれども江藤は、「成熟」を獲得することが同時に、「美の世界」の「断念」をともなうことに、意識的であらざるをえなかった。十条の人々に感じる「嫌悪」の情は、このような「断念のなさ」に向けられたものだったのではないか。

 しかし、このような環境が、どれほど大人になりかけていた私にとって刺戟的に感じられたとしても、そこには美が決定的に欠けていた。
 そのことを、私は、夕焼けを眺めるたびに痛切に感じた。緑のほとんどない十条仲原界隈で、美への渇きを癒してくれる自然といえば、夕方の一刻、西の空に展開される豪奢な残照の饗宴以外にはなかった。(433)

「成熟」と引き換えに「喪失」を経験すること。「喪失」の索漠とした痛みとともにしか、「成熟」は訪れないこと。江藤にとって十条銀座商店街は、そのような精神的体験の場としての意味を持っていた。ある日、古本屋で入手した伊藤静雄の詩集は、かれの文学者としての出発点となるのだが、それはまさに、「成熟」と「喪失」という二重性を紡ぐ詩群であった。