オルテガ再論

民主主義という制度自体は高邁な理想に支えられているわけで、べつに批判をくわえる理由も見つからないし、いかんせん、高邁な理想を支える「民衆」が「大衆」となってしまっている文明論的現状からすれば、昨日のことも結局は諦めるしかないのだろう。つまり「超デモクラシー」ということである。

 わたしは、大衆はすでに欲望も持てばそれを達成する手段も手にしているのだから、彼らが以前よりも大規模にしかも多数の者が楽しむことを非難する人は一人もいないだろうと思う。しかし困ったことは、本来少数者のものであった活動分野を簒奪しようという大衆の決定が、享楽の面に関してのみ行なわれたのではなく、また享楽の面のみということは元来不可能であって、そうした傾向が時代の一般的風潮となっているということである。……今日われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているのである。今や、大衆が法を持つことなく直接的に行動し、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制しているのである。……当時の大衆は(=「自由主義デモクラシー」時代の「大衆」[引用者注])、公の問題に関しては、政治家という少数者の方が、そのありとあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、結局は自分たちよりいくらかはよく知っていると考えていたのである。ところが今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである。(20−21)

「大衆」が小泉政治を好むのは、至極当然だろう。「大衆」は分かりにくい物事を拒絶するからである。オルテガは今日の大衆人の心理傾向が「甘やかされた子供の心理に特徴的なもの」であるとして、次のように書いている。

……われわれは、今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。この二つの傾向はあの甘やかされた子供の心理に特徴的なものである。(80)

……誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になんの制限も加えないこと、自分にはいっさいのことが許されており、なんの義務も課せられないという印象を彼にあたえることである。こうした条件のもとで育った人間は、自己自身の限界を経験したことがない。外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特にいかなる人間をも自分に優る者とはみなさない習慣がついてしまう。(80−81)

他者の他者性についての、絶対的な鈍感さ。みずからの単純素朴な思考を信じて疑わない大衆に、「他者」と向き合う機会は永遠に訪れず、それゆえ現実の複雑さを感じとる機縁も訪れることは絶対にない。今回、政治における「他者性」をもっとも啓蒙しえたのは田中康夫であっただろうが、所詮はそれも「焼け石に水」「猫に小判」のことだった。小泉の自己愛型パーソナリティーは、他者と出会わないその単純素朴さゆえに、日本「大衆」社会と見事に共振したのである。