「自分探し系」VS「引きこもり系」再論

昨日も書いたように、「経験的=超越論的二重体」としての人間をあつかう人間諸科学は、三つのレベルで、内在的な限界と格闘することになるわけです。すなわちそれは「経験的なものと超越論的なもの」「コギトと思考されぬもの」「起源の後退と回帰」の三つであります。このうち「コギトと思考されぬもの」におけるHusserlの試みが、どのような内的矛盾を導くのか、今日は考えてみることにしたいとおもいます。そのことは、五月に言及した「自分探し系」と「引きこもり系」との対立図式とも、深く関わる話でもあります。http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050524
近代のepistemeによれば、人間は現存在として、つねに不透明な存在の仕方をしています。人間が思考するにしても、思考を可能にする能力の基盤自体は、思考することができない。つまり人間は、言語によって世界の内部に巻き込まれているわけですから、言語という思考の条件自体に到達することは不可能なわけです。したがって、「近代のコギトは、発見された明証性というより、つねにくり返されねばならぬたえざる作業」として存在することになり、学問もそのようなものとして自分自身を定立することになります(344、67)。
しかし、このような不透明性は悪いことなのでしょうか。いいえ、そうではありません(←あやしい)。

サルトルも気づいていたように、自己と社会について完全に明晰に意識している人がいるとしたら、その人はたしかに至高の選択者ではあろうが、もはや選択する理由ももたない君主のような人である。このような見解に含まれた論理に従うと、われわれは不明瞭な衝動に突き動かされる客体であるか、まったく行為できない鮮明な主体であるかのどちらかである。こうして「近代の思考にとって、ありうべき道徳などというものはない」(348)ことになる。(69)

ここで「ありうべき道徳」というのは、(Husserlのごとく)みずからの行為を動機づける背景的知識を顕在化させようとする(人間諸科学の)意志、のことを意味します。このような顕在化、明証化は、近代のコギトへの問いを終わらせようとする動機をもつのですが、もしもそうした明証化が果されてしまうとすれば、人間諸科学はどうしようもないニヒリズムに侵されてしまうことになるのです。ああ、にっちもさっちもいかない!