『岸信介』

原彬久(はらよしひさ)著、岩波新書。第四章までしか読んでいないが、明らかに名著の香りがする。第一、文章が素晴らしい。眼から鱗が落ちたのは、北一輝ら大亜細亜主義の思想が、岸信介を媒介として現実化していたという事実である。
長州に生を享けた岸信介は、吉田松陰の思想にも影響されていたためか、学生時代、民本主義吉野作造)と木曜会(興国同志会、上杉慎吉)のうち、上杉の国体論の方に共鳴した。

岸が晩年、「私は初めは上杉先生の思想よりも、その人柄に惚れた」(岸インタビュー)と回想しているように、晩酌をしながら学生たちを相手に磊落な話術を展開する上杉のその人柄は、岸を大いに魅了したらしい。紋付き袴姿で重厚、流麗に講議する上杉の国士的風格もまた、いたく岸の心を捉えたようである。(23)

だが、いっそう本質的だったのは、亜細亜主義インパクトである。

 とくに北一輝が岸に与えた思想的衝撃力は重い。岸が北と直接相まみえるのはただの一回だが、その出会いは岸にとって劇的でさえあった。大正五年(1916年)六月、中国革命に身を投ずるため上海に渡った北は、大川周明の求めもあって同九年一月、つまり岸が大学を卒業する少し前、長崎経由で東京に帰っていた。前年の大正八年八月満川亀太郎とともに政治結社猶存社をつくった大川周明が、この猶存社の指導者に北を据えるべくわざわざ上海に彼を訪ね、日本に帰るように説いたのである。
 岸が北一輝を牛込の猶存社に訪ねたのは、北がこうして帰京した直後である。北の眼光炯々とした隻眼でにらみつけられた岸は、「魁偉なるその風貌と烈々たる革命家的気迫とには完全に圧服されて了つた」(……)。辛亥革命の革命服に身を包んだ北は、宙を指差してこう叫んだ。「空中に君らの頼もしい青春の血をもって日本の歴史を書くんだ」(岸インタビュー)(24)

岸は北を「後に輩出した右翼の連中とは其の人物識見に於て到底同日に論ずることの出来ぬものであった」としている(26)。また大川周明からも、彼は重大な影響を受けている。

「大川は物事をいい切る人だ。そういうことが若い者に非常に印象的であった。学者は、ああでもない、こうでもないといろいろな学説を並べるが、とにかく大川さんという人は決断をもって若者にこうだといい切るんだ。上杉先生と同じように、それが非常に魅力的であった」。……「その頃はまで大東亜共栄圏なんていう考えは頭になかったが、こういった考え方や私の満州行きの基礎には、大川さんの考え方があったことは否めない」。(29)

原さんは、「つまり岸は、昭和一一年一〇月商工省から満州国へ転進する、その思想的基盤が大川の大アジア主義であることを率直に認めている」と結論している。「岸のなかに理論的に構築されつつあった北一輝国家主義、すなわち国内改造論と対外膨張論とを一体化させた国家社会主義は、同時に大川の大アジア主義によってさらに肉付けされていったといえよう」(29)。
いうまでもなく、日本の高度成長の隠れた要因のひとつには、岸信介革新官僚が計画した満州経営での経験があるのであり、その本質は社会主義的な統制経済なのである。岸がソビエトの五カ年計画に先を越された思いをしたことは、その後満洲で試され、戦後経済のなかで現実化されていったことなのである。その意味で、大アジア主義の思想は、まさに現実に成果をもたらしたのだと考えることもできよう。もちろん、その功罪は問われるべき問題ではあるのだが。
大川周明亜細亜主義について、参考までに→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050514