イギリスの義務教育制度

尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』(清水新書、1984)よりメモ。日本では学制発布が1872年(明治5年)、尋常小学校4年が義務制になるのが1886年明治19年)なので(プラス高等小学校が4年ね)、イギリスには勝っている。

 イギリスは近代化がもっとも進んでいる国であるといわれながら、初等教育はたいへん貧弱で、プロシア、スイス、アメリカよりも遅れていた。
 南北戦争における北部の勝利は、「公立小学校の勝利」であり、一八六六年プロシアオーストリアに大勝したのは、プロシアの「小学校の先生たちの勝利」といわれた。
 なにも戦争に勝つためばかりではない。産業と技術が進歩し、また外国の産業の競争力が強化されてくると、この方面からも国民教育の必要が痛感されてきた。
 イギリスでは、国家が国教会の経営している小学校に補助金を与えて、国民の子弟の教育を行なってきた。一八六九年ごろ、イギリスの学齢人口のうち、六割はなんらかの学校教育を受けていたが、きわめて不十分なものであり、残りの四割が問題だった。
 そこで、急進派出身の文相であったフォスターが作成した「一八七〇年初等教育法」が、激しい論争ののち成立した。これは、私立学校には政府の補助金を増額し、また地方ごとに選出された学務委員会の監督の下に公立学校を設置し、政府の補助金、授業料、地方税によって維持されるものとした。
 宗教教育の可否が深刻な論争を生んだ。結局、私立学校では宗教教育を行なってもよいが、父兄の反対があったときは、強制してはならない。公立学校では国教以外の特定宗派の宗教教育は行ってはならない。小学校教育はなるべく義務教育化すべきではあるが、そうするかどうかは各地区の学務委員会の決定にまかせる、というのである。
 一八七〇年の教育改革は義務教育への前進であったが、全面的な実施にはいたらず、また宗教教育に関しては、国教徒以外に不満が残った。文相自身は既設の宗派諸学校を買収して、それを非宗派の公立学校に変えることを希望していたが、首相が国教会主義であったため、国教会に有利な改革となった。(124−125)

国教会主義の「首相」は、グラッドストンで良いのかしら。どうもイギリス史がすっぽり抜けている気配。ところで、自分でいうのもなんだが、次の文章は結構まとまっている→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050602