『岸信介』

名著とまではいえなくても、間違いなしに好著だな。A級戦犯として幽囚の日々を送っていた岸は、満州経営で培った人脈からの働きかけや、冷戦を背景とした懲罰的政策の微温化、GS(=対日懲罰)とG2(=反共)の対立などによって、幸運にも釈放されることになった。
その岸が最初に画策したのは、「強力な指導態勢」を整えるための保守勢力の合同である。合従連衡を繰り返した戦後保守勢力には、二つの流れがあった。

 ……一つは、GHQ追放処分の鳩山から吉田に託された日本自由党が、二三年三月、進歩党系民主クラブを吸収して民主自由党となり、この民主自由党が二五年三月、同じく進歩党(昭和二〇年一一月一六日結成)をその前身とする民主党の一部(犬養派)を吸引する形で自由党が生まれる、という流れである。吉田が一貫して指導してきたいわゆる「保守本流」である。
 いま一つは、進歩党が民主党となり(昭和二二年三月結成)、他方協同党が協同民主党(昭和二一年五月結成)を経て国民協同党(昭和二二年三月結成)となったのち、両者すなわち民主党の一部(芦田派)と国協党が主勢力となって国民民主党が結成され(昭和二五年四月)、これが二七年二月、改進党の結成を導いていく。「保守傍流」といわれるものである。(154−155)

保守本流」と「保守傍流」の関係性にかんする知識が薄いので、いずれ仕込まねば。とにかく岸信介は、自由党員として議員になりながらも、鳩山一郎を新党首にするという妥協線で保守合同へ向けた活発な活動をおこない、一時は「反吉田」として除名されるのであるが(実際、岸は吉田を「ポツダム体制派」(160)とレッテルづけしていた)、左右社会党の統一、アメリカ側が強い保守政党を求める意向を示したことなどによって(=ダレス重松会談)、最終的には周知のように55年体制が開始されることになる。
それにしても、保守結集へといたる政治勢力の動きはきわめて複雑である。「保守本流」と「保守傍流」といっても、吉田茂のようにサンフランシスコ体制を維持し、「改憲慎重論」「(見かけとしての)対米追従外交」を継続することが「真の保守」なのか、それともそのアンチテーゼを掲げた鳩山一郎のごとく、「対中ソ国交回復(=独自外交路線)」「憲法改正論」の路線が「真の保守」なのかは、一概には何ともいえない(166)。また、岸は釈放後、再建連盟などを組織していたときに、「以前から自分のなかにあった『社会党入党』を親友三輪寿壮を通じて右派社会党に打診してい」たりするのだから、「日本政治におけるイデオロギーの雑居性ないし思想的多神教」、さらにそれに淵源した政治理念の錯綜ぶりといったらない(152)。
とはいえ、岸が日米安保改定をめざして奔走し、そのために東南アジアを歴訪するなどしていた背景には、大アジア主義の思想があったわけで、その理念に関しては一貫したものがあったといえる。

……彼は後年インタビューで、戦前みずからが抱いた「大アジア主義」と戦後におけるアジアへの関心とは「完全につながる」とともに、「自分が満州国に行ったこととも結びつく」こと、すなわち自身における「戦前」と「戦後」とは「おそらく断絶はない」し「一貫している」と断言する(岸インタビュー)。(190)

立川談志師匠のように叫ぼうか、「満州をかえせェ!」。
さて、私などが考えるのは、政治における「理念性」とはいったい何であろうか、ということである。

……いずれにしても、岸はその目的において「理想」主義者である。そして、岸はその方法において「現実」主義者である。理想を追いかけるその道程で編み出される岸の戦略と戦術は恐ろしく多彩であり怜悧であり、ときには悪徳の光を放つ。理想が執念を生み、現実が機略を掻き立てる。しかも岸においては執念が機略を刺激し、機略が執念を固める。その体内に理想とおどろおどろしい現実とを重層させ、執念と機略を共生させる岸であればこそ、彼への毀誉褒貶もまた闊歩する。(239)

理念は現実を動かす、このことは言うまでもない。たとえば、現今の平和憲法のあり方に、逆説的に現実主義的側面を見出すようなトリッキーな論説は、「理念の現実性」に照準した主張であるという点で評価できるものであろう。しかしそうであれば逆に、「押しつけ憲法論」の説得力というのもそれなりに無視できないわけである。それはたんなるリアルポリティクスとしての説得力だけではなく、岸のように戦前からの現実政治家の視点から見た場合、ある意味で理念的な説得性を備えているものでもあるのである。では、政治における「理想」とはいったい何なのだろうか。60年安保の賛同者が「理想」に賭けていたというのは分かりやすいが、吉田茂の「理想」は、岸信介の「理想」は、と考えていくと、ほんとうに事態は多層的である。政治の評価、というのは大変難しい*1
原彬久さんの岩波新書の新著『吉田茂』が出たので、読まなければならない。吉田茂については、これを参照→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050506。福田くんは、吉田の対米従属ぶりをまったく評価していないけれど、サンフランシスコ体制は本当にそのように単純な従属体制だったのだろうか。反証があれば、知りたい。

*1:戦後日本のように複雑なイデオロギー状況下で、有能な政治家がそれぞれ活躍している場合には、ということだが。