教科書のカラクリ

論座』(2005年11月号)。この号は、なかなか読みごたえのある記事が多いが、「教科書のカラクリ 業界関係者が明かす舞台裏」に注目してみる。教科書会社の関係者、教科書執筆者らによる座談会を、苅谷先生が以下のように整理している。

 検定に合格できなければ、教科書会社のそれまでの仕事がすべて無駄になる。それを避けるために、検定に通らない可能性が少しでもあれば、そのリスクは冒さないというのが教科書会社の合理的判断だ。思い切った斬新なアイデアの教科書がつくれない理由もここにある。

これは、1990年度から「一発検定」のシステムに変ったため。

 おそらく、今回の座談会で多くの読者が驚く発言のひとつは、教科書会社の利益が、教科書そのものの売り上げからではなく、一冊数万円もする教科書の指導書や、そのほか教科書に付随する教材の販売から上がってくるという指摘だろう。……/教科書1冊あたりが何百円程度に抑えられた中では、採択数を増やし、教科書そのものを大量に売るしかない。……教科書会社が提供するもろもろの情報やサービスといった、トータルとしての「商品パッケージ」を売ることが、ビジネスとしての教科書会社の神髄ということだ。

そんなに驚かないが。

 また、教科書会社の寡占状態をもたらすのではないかという指摘も説得力があった。販売力のある大手ほど見栄えにコストをかけることができ採択されやすくなる。このまま「一人がち」が進めば結果的に一社のみが生き残るという可能性だってないとは言い切れまい。多様な教育を目指す時代に逆行する動きだ。

1999年に公取が教科書協会という社団法人の規制を独禁法違反であるとした結果、ビジュアル重視になった。カラーだと子どもの喰いつきがよい、というレベルで教科書採択されているのだから、義務教育というのは明らかに愚民化教育、あるいは先生の馬鹿さ加減を生徒に伝染させる場、であることがわかる。

 教科書づくりから浮かびあがるもうひとつの問題は、教育産業への学校の依存体質である。学習指導要領を詳しく読む教員がほとんどいない、教材研究や日常の授業準備の時間が少ない、そもそも十分な教材研究をせずに教壇に立つ教員が多い、自分たちで教材やテストを作らなくても困らない――。(以上、212)

公立小中学校の7、8割の教員の授業研究時間は、一時間以内。これに驚いている苅谷先生は、やはり認識が甘いのではないか。

 この便利な仕組みが、「多忙化」と合体したとき、自分なりの工夫を凝らした授業準備をしなくても授業ができると考える教師を増やしてしまう。懇切丁寧に作られた指導書や副教材を使って授業が組み立てられていれば、教師自身の教育力は弱まるばかりだ。「教科書を教える」のがやっとのことなら、「自ら学び、自ら考える力」の教育を目指す改革など、しょせん絵空事に思えてしまう。(213)

総合学習は教師の自己教育の機会でもある、というのは、寺脇なども言ってたような記憶があるが、「絵空事」の側面はたしかにあるのかもしれない。しかし、教科書会社の指導書を使用しないで、自分なりの授業をした結果、余計ひどいことになる、ということもあるんじゃないだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050724