基本的なりくつ

だるい。けど、考えたことはすぐに消え去るので、書き留めておく。

  • 原則的に、大衆は「あるべき社会理念」など求めない。そんなものがなくても立派に生きていけるのが、まっとうな人間である。
  • とはいえ例外がある。それまでの社会像が崩壊したときには、大衆も社会像を求めざるをえない。また、その時代における社会像に生活実感にもとづくマイナスの価値が付与されている場合にも、「あるべき社会理念」は求められる。戦後日本でいえば、戦争体験、貧困、あきらかな不平等といったファクターが、そのようなものにあたる。
  • さて、共産主義的な革命運動は、大衆をどのように動員するか、という問題をともなう。
  • 動員のレベル・戦略はさまざまである。労農独裁論とか、プロレタリアート独裁論とか、地域人民闘争主義とか。
  • しかし、動員の戦略が多様であると、革命主体の側には、激しい内部闘争が生じる。
  • 内部闘争が昂進していく理由としては、大きく二つの条件が考えられる。ひとつは、各戦略がそれぞれの真理を信奉するという条件。もうひとつは、共産主義が想定する革命主体がプロレタリアートであるのに、現実の指導主体は、あきらかにブルジョワジー階層に属するという条件。
  • 第一の条件について。政治闘争が有効に進められるためには、現存の社会条件と、それを動かしていくための方法論とが、どちらも理論的に基礎づけられていなければならない。しかし、理論が論理体系として構築される以上、それは反証可能性から自由ではない。そうであれば、その理論が真理であるという主張は、真理であるから真理である、という循環論法を帰結することになるだろう。しかしもちろん、循環論法がそれとして表面化されるような事態は、理論や戦略にとって自己破壊的である。そこで、各理論は、他の理論の欠陥をことさら強調することによって、みずからの正しさを主張する、という方向に向かわざるをえないことになる。これが、真理を奉戴する革命闘争が、内部闘争を昂進させる第一の理由である。
  • 第二の条件について。マルクスを読むのはインテリである。インテリは、プロレタリアートではない。そこで、プロレタリアートが革命主体であるはずの革命理論は、原理的な自己矛盾をかかえることになる。むろん、インテリが革命主体でもありうるという理論化はさまざまになされた。しかし、たとえインテリが革命を指導する主体でありえたとしても、最終的な革命主体はプロレタリアート(国民)とならなければならないので、この矛盾が完全に解消されることはない。指導者たるインテリは、便宜的にプロレタリアを指導するにすぎないのだから、原理的にその地位の根拠は不透明なのである。そこで、インテリの便宜的地位を強化するために、その指導者性が理論的に強化することが必要となる。とすると、「インテリ=真理の保有者」という図式が誕生するだろう。つまり、真理の根拠の追求→理論の強化→他の理論の排斥、という第一の条件への接続がおこなわれるのである。
  • 要するに、革命闘争は「真理の追求本能」のために、真理をめぐる神々の闘争のなかに、みずからの運動の現実性を感じることになってゆく。それは、大衆における現実性から容易に遊離する。もちろん、大衆の状況については言及されるだろう。しかしそれは、「真理」から遠ざけられた「啓蒙の対象」としての「大衆」なのであり、また、みずからの「戦略」の道具として「手段視された大衆」なのである。
  • 戦後日本では、基本的に上記の条件による不毛な理論闘争・政治闘争が、革命運動を彩っていた。しかし、そうした革命運動であっても、大衆側の「戦争体験」「貧困」という条件によって、ある種の実感をともなった高揚を経験しえた時期もあった。だが、革命運動は、大衆の論理を内在的に理解することはない。大衆とはどのようなものか、大衆をいかにして動員するか、ということのプラグマティックな分析はそこには存在しえないからだ。その理由は、革命主体が「真理闘争」に陥るから、とりわけエリートとしてのコンプレックスが原因で、大衆を指導する「指導性」をめぐっての「真理闘争」が展開されてしまうから、である。

なんか、アジテーションみたいな文章。