右翼宣言?

サーヤさんのネタの続きというわけではないが、スパを立ち読みしていたら、坪内氏が右翼と左翼の定義について話していたので、それについて書く。
正確には憶えていないが、坪内氏によると、右翼はデジタル式に黒か白かで感情を割り切ることができない、という。左翼はそれを割り切ることができるので、解放の論理を明晰に語り得る、という。
適切な区別だ。超越的な存在への感受性がなぜ育まれるかといえば、論理ではカタのつかない体験をしてしまうからだ。解放への道すじがなぜ見えるかといえば、その道すじを確からしく思うだけ、論理を信頼しているからだ。
ということは、社会設計論としてのファシズムは、左翼の論理ということになる。国家社会主義なのだから、当たり前。でも、それに大東亜共栄圏の協同原理などというロジックが付け加わると、途端に右翼になってしまう。そこには、「大アジア」という超越性が加わっているからだ。
私は左翼が好きではない。論理を尽くしても通じない感受性というのは、確実に存在するからである。(ただし、右翼の超越性も、それが論理を無視する限りにおいて、否定されるべきものである。)