『戦後 日本共産党私記』

安東仁兵衛著。この本を読んでいると、共産党シンパの脆弱さが明確に分かるのだが、それはやはり左翼の人間が論理を過剰に信じていて、論理では割り切れない現実の複雑さに対して、まるで感性を失っているためなのである。つまり、自分の目の前の現実から出発して思考を積み重ねていくというプロセスが、まったく欠如しているのだ。だから、コミンフォルムの言葉を絶対視して右往左往したり、仲間内での路線対立が過剰に先鋭化したりする。対立が先鋭化するのは、対立が許せないからであるが、対立が許せないという感情の背後には、現実がなんら矛盾を含まない透明なものだとの想定があるのである。前にも書いたが、学生の場合だと、ここに教養主義エートスなどが付け加わることになる。
とにかく、その右往左往ぶりをいくつか引用しておこう。まずは、1950年1月7日のコミンフォルムによる「野坂批判」をめぐって。所感派は当初、コミンフォルムの情報はデマだとして、批判は受け容れがたいとの声明を発表するが、結局自己批判するにいたる。アメリカ占領下での平和的社会革命はやはり無理だったということだ。

 18日から党内外の注目の中で十八回拡大中央委員会が開催された。発表された結論は全員一致で批判を受け入れること、批判の対象となった自分の諸論文は「原則的に誤びゅうである。……」とする野坂の自己批判が発表された。徳田らの態度を変化させたのは十七日附の『北京人民日報』に発表された論文「日本人民解放の道」であった。中共のこの論文はコミンフォルムの野坂批判の正しさを追認し、日共中央にその承諾を迫るものであった。(91)

で、国際派というか、当初より反米武装闘争路線を取る傾向にあった全学連においても、当然ながら「左旋回」がはじまった。火炎ビン闘争、とかネ。

 五〇年の十一月に入って全学連内の「右翼反対派」が突如左旋回を開始したと記したが、その背後には所感派の重大な方針転換、――現在「極左冒険主義的偏向」と一括されている軍事闘争方針、武装革命路線への転換という重大な事実が横たわっていたのである。(141)

この深刻な転換が全党的にオーソライズされたのが五一年の二月二三〜七日の五日間、非合法に開かれた第四回全国協議会=四全協であった。この四全協の実態については今日に至るまでまったく解明されておらず、党史における秘密とされているが、この四全協をもって所感派はコミンフォルム論評以来の党内問題に最終的な決着がつけられた、とした。(142)

じゃあ、あとはコミンフォルム路線で共闘すれば良いよね、と思うのだが、しかしそうはいかないのは、この人たちが、自分の信じる革命路線だけが唯一「現実的」だと考えてしまうからである。だから分派抗争は「終りなき日常」となってしまう。

 だがこうした内部対立をはらみながらも四全協の開催を経て、統一会議は所感派にたいするいっそうはげしい分派的抗争へと突き進んでゆくのであるが、その過程で所感派と国際派との闘争方針には奇妙な“逆転”が見られるようなことになった。すなわちコミンフォルム論評以来、反帝闘争を主張する国際派を「極左冒険主義者」「ハネ上り」と批判して日常闘争を重視しつづけてきた所感派が、武装革命と軍事方針をふりかざして国際派を右翼日和見主義と非難しはじめ、これまで所感派を「右翼日和見主義」と規定してきた国際派が彼らを極左冒険主義者と呼ぶに至ったのである。コミンフォルムによる野坂の平和革命論批判を全面的に承認したとはいえ、にわかに武装闘争、軍事方針を提起しはじめた所感派の新方針は、「武器をもてあそぶ」極左冒険主義、犯罪的な誤謬としか考えられなかったからである。(143)

いずれにせよ、この武装革命路線は、国際派の地位をどんどん低下させていくことになった。ところが周知のように、53年3月のスターリンの死去などあり、マレンコフやフルシチョフによって指導された国際共産主義運動は、今度は平和共存路線を取るようになる。それで六全協では、この武装路線が放棄されるのである。「六全協が発表された七月の末から年内いっぱいの党内には「六全協ショック」「六全協ノイローゼ」「六全協ボケ」と呼ばれる状態――終戦直後の虚脱状態にも似た状態がつづいた」(213)。このとき、国際派のふたたびの隆盛を予感した著者は、大学で出会った丸山真男にこのように語ったらしい。

 党内では主流(所感)派と国際派との地位が逆転し、後者が前者にとってかわることは必至であろう。たしかに五〇年分裂における主なる責任が前者にあり、またその後の極左軍事方針の責任は大なるものがある。しかし私の国際派体験からすれば、後者の正当性も相対的なものであり、両者にはさまざまに共通する体質と思考様式があるのであって、単純な逆転によって党の再建と革新は成就しえないであろう。したがって、これからの党内闘争では旧国際派の出身で、しかも国際派じしんをキチンと批判する者がいなければならない。おそらくこうした視点や見解を表明する者は少ないであろうが、しかし私はあえてこの立場を貫くつもりである、との抱負を語った。(216)

著者のこのような姿勢はきわめて柔軟なものだが、しかし柔軟であったからこそ、その後、彼は共産党から脱党することになった*1。いずれにせよ、日本共産党のその後は別としても、学生左翼運動がどんどん内ゲバを繰り返していくようになるのは、以上で見たように、彼らが歴史の動因を単数的にしか見ず、その他の革命路線を真理ではないとする硬直性を帯びていたからにほかならない。

*1:なお、丸山は六全協を心から喜び、安東の姿勢を評価・激励したらしい。