少年院

ハイビジョン特集、「少年院・教官と少年たち・250日の記録」。
以前にも見たような気がするが、また見てみる。
少年法の法理念は教育刑であり、少年院も教育機関としての役割が期待されているが、そこにはやっぱり限界があるんじゃないか、という話。この限界が、最近の子どもに顕著なものであるかどうかは、調べてみないとなんともいえない。もしかするとそうなのもしれない。
友達をリンチして失明、言語喪失、半身不随に至らせたという、非行少年が出てきた。「(教官)そうやって暴力を振っているときは、どんな気持ちだったの?」「(少年)楽しい気持ちもあるし、これ以上はマズイかなという気持ちもある。あまり憶えていない」「(教官)被害者はそれでどうなったの?」「(少年)頭から血が出ていた。暗くてよく分からない。」「(教官)それだけじゃないだろう?どうなったか、知っていること全部教えてよ。」「(少年)身体が半分動かなくなって、目が見えなくなって、言葉がしゃべれなくなった。」「(教官)それで君は被害者にたいしてどう思うわけ?」「(少年)そうなったことがないから、分からない。」「(教官)分からないじゃないだろ?想像できるだろう?」「(少年)いや、なったことがないから分からない。」「(教官)でも、それが想像できないと、少年院は出られないよ。ずっと出られないことになるよ。」
担当教官は、「自分がやったことだけはしっかり認識してほしい。まだまだ逃げている。彼の場合、一人で生きていくきっかけも得て欲しい」と言っているのだが、どんなものか?教官自身も一縷の望みにすがり、教育の可能性にかけているわけだが、そこに本当に可能性はあるのだろうか。
少年院の教育モデルは、責任・役割分担にもとづく集団教育であり、責任の範囲・レベルが序列化され、その序列を各少年が上昇(進級)していくということになっている。トラブルなどが起きると、その進級が取り消されたり、どなられて怒られたりする。そういう機会を利用して、「自制心の欠如」「他者との連帯感」「責任感・信頼感」などを学ばさせるわけである。
しかし、このような教育モデルには根本的な矛盾が存在する。それこそ、やっていることは、小学校の道徳教育と何ら変わるところがない。ああいうのは、全部ゲームで終わってしまう危険がある。そこで必要なのは、「トラブルを反省したように見せかける語彙の修得」や、「他者との連帯の必要性を語る語彙の修得」でしかない。つまり、「内面の変化」などという達成を、本当に確かめることはできないのである。
たとえば、先ほどの教官と少年のやりとり。「少年院から出られない」と分かったら、少年は「被害者への謝罪」や「他者との信頼関係」といった語彙を修得するかもしれない。しかしそれは、あくまで功利的な観点からのものであるかもしれない。本当の反省であるかどうかは分からない。つまり、少年院の教育目標は「内面の変化」であるが、「内面の変化」を確証させる証拠を見出すことなどできない。
もちろん、少年院は何らかのゴールを設定せざるをえないので、一定のプログラムを用意する。それが終了されることをもって、「内面の変化」が達成されたという前提に立つわけだ。ところが、それはどこまでも「前提」にすぎない。現実には、非行少年の再犯率は2割ほどなのだが、あるいは、教育機関としての少年院の理念は、理想にすぎないのかもしれないのである。
もちろん、このような教育プログラムがまったく無意味かというと、そうとも言い切れないだろう。先の少年の例でいえば、極端な語彙不足の問題がある。あまりに語彙が不足しているのなら、反省したり、状況認識できるだけの語彙を用意してやらなければならない。そこからはじめることなしには、反省の仕様がない。
とはいえ、それがどこまで効果をもつのかは、まったくの未知なる実験である。また、そこまで語彙が少なければ、反省の語彙だけを修得させただけでは、事はすまない。その場合には、言語能力それ自体の再教育が必要であり、そうであれば、集団教育のなかでの更生という少年院の教育プログラムは、二次的な教育効果しか期待できないことになる。
といったわけで、「お前は変わったか?変わったか?」と強迫的に繰り返す少年院の教育プログラムには、根本的な限界があるといえる。道徳というのは、教えられなくても自明視されている規範であるのだから、道徳を教えるということには、不可能性がつきまとう。それは「体得」してもらうしかないことである。では、どうやって?作文教育はやってるみたいだが、やばい文学作品をたくさん読ませてみたら、自分のやばさにも気づくのではないだろうかな、と夢想してみる。
「非行少年」については、これ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050508