「夜の紅茶」(1971)

このところの風邪は、お腹にくるらしい。お腹の調子がわるいと、身体も気持ちも調子が出てこない。ここ2、3日は、お腹をいたわるために、暖かい紅茶などを飲むようにしている。普段は、アメリカン・コーヒー一杯で、おそろしくテンションの上がってしまう私だが、こんな文章をふと目にすることになった。

 ……しかし、コーヒーについては、私はこういうなつかしい記憶を持っていない。紅茶にくらべられるものがあるとすれば、それはコーヒーではなくむしろココアだ。……
 これは、ひょっとすると、紅茶やココアがいわば家庭の味であるのに対して、コーヒーが家庭の外の味とでもいったおもむきの飲み物であるためかも知れない。それは事務所の味であり、商談の味であり、あるいは下宿暮しをしている大学生の味である。いいかえれば、紅茶やココアが“保守的”な味であるのにくらべて、コーヒーは“進歩的”な味なのだ。より少なく幼児性を含み、より多く大人の飲み物というおもむきを呈しているのである。
 そうだとすると、私はもともと幼児性の強い人間で、どちらかといえば家庭に傾斜しており、気質も“保守的”で、現代産業社会のペースについて行けない人間だ、ということになるのかも知れない。しかし、ついて行けないといって呑気にかまえていれば生活が立てられず、家族を養うこともできないので、無理をしてあくせく働いている、ということになるのかも知れない。
 でも、それはやはり昼間だけのことにしておきたい。夜になったらひと眠りしてコーヒーの時間を断ち切り、夜の紅茶を飲みながら自分の心のなかをのぞくことのできる時間がほしい。天下国家も、政治も社会も経済も忘れて、自分はどこから来て、どこへ行くのだろう、というようなことを考えていたい。
 そして私は、銀のティー・ポットの、鈍い輝きを見つめていたい。そうしながら紅茶の香りのかなたに、喫茶の習慣を文化にまで高めた日本人や中国人やインド人がおり、それをとり入れて独特のスタイルを発達させたイギリス人がおり、というような歴史がひそんでいることも、あれこれと思い出してみたい。(275−276)

江藤淳コレクション2』(ちくま学芸文庫)より、引用。なんて、素晴らしい文章なんだろうね。つぎの叙述も興味深い。

 面白いもので、アメリカ人は、今日にいたるまで喫茶の習慣を持っていない。無論紅茶はあるし、飲まないことはないが、彼らの主な飲み物は番茶の出がらしのような薄い気の抜けたコーヒーであって、決して紅茶ではない。このアメリカン・コーヒーは、たしかに能率の味がする。ゆとりとか、香りとか、情緒とかいうものとはついに無縁な、禁欲的かつ金属的な味がするのである。(276)

たしかに、私がコーヒーを飲むのは、「能率」以外の理由ではない。
それにしても、さすがにまだ若いので、紅茶を味わうのに至福を感じたりはしないけれど、身体が弱っているせいか、こういう文章にはすぐに参ってしまうなあ。