『尋常小学国語読本』

高木市之助述、深萱和男録。中公新書(昭和51年)。
もう5年以上前にもなるが、『尋常小学国語読本』の復刻版セットを、高田馬場近辺の古本屋で千円で入手したことがあって、パラパラと読みながら、大いに笑ったものだった。

 ベートーベンはひく手を止めた。友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入込んで、ピヤノとひき手の顔を照らした。しかしベートーベンは唯だまつてうなだれてゐる。しばらくして兄は恐るヽヽ近寄つて、力のこもつた、しかも低い声で、
 「一体あなたはどういふ御方でございますか。」
 「まあ待って下さい。」
 ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲を又ひき始めた。
 「あゝ、あなたはベートーベン先生ですか。」
 きようだいは思はず叫んだ。
 ひき終るとベートーベンは、つと立ち上つた。三人は「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。彼は再びピヤノの前に腰を下した。月は益ゝさえわたつて来る。「それでは此の月の光を題に一曲。」といつて、彼はしばらくすみきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノの鍵にふれたと思ふと、やさしい沈んだ調は、ちやうど東の空に上る月が次第々々にやみの世界を照らすやう、一転すると、今度は如何にもものすごい、いはば奇怪な物の精が寄集つて、夜の芝生にをどるやう、最後は又急流の岩に激し、荒波の岸にくだけるやうな調に、三人の心はもう驚と感激で一ぱいになつて、唯ぼうつとして、ひき終つたのも気附かぬくらゐ。
 「さやうなら。」
 ベートーベンは立つて出かけた。(101−102)

あまりの名調子ぶりに、「よ、ベートーベン!」と声を掛けたくなること必至であるが、それ以上に、この読本で育った小学生が実際に『月光』を聴いて、「奇怪な物の精が寄集つて、夜の芝生にをどるやう」なイメージを抱いたであろうことも疑えないところだろう。
さて、それはどうでも良いのだが、このような国語読本の執筆に図書監修官として加わっていたのが、高木市之助という人で、本書はその回想録となっている。
国語読本をはじめ、教科書が国定化されるにいたったのは明治36年のことであるが、そのきっかけとなったのは、明治35年の教科書をめぐる贈収賄事件であった。第一期の国定読本は、「ラッパ ヲ フイテ ヰル ノ ハ タロー デス。」といった棒引き仮名遣いのものだったが、字音仮名遣いが元に戻されたり(明治41年)、小学校令の改正(明治40年)、義務教育の年限延長などもあって、明治42年には第二期の国定読本『尋常小学読本』が誕生した。
この第二期『尋常小学読本』は、言語練習に重点を置き、文学的趣味を後退させていた第一期の読本と比較して、児童の「自然的口語」を反映させた、分かりやすさを重視したものだったという。
で、高木が執筆に加わったのは、大正7年の第三期国定読本からであった。この時期は、国定読本は二種類あり、それぞれ、旧読本を部分的に修訂した『尋常小学読本』、新編集の『尋常小学国語読本』である。このようになったことの背景には、都市と田舎の地域的相違を考慮に入れたという建前的な理由、および文部省内の勢力争いということがあったようだ。同じく図書監修官であり、「読本の神様」とも呼ばれた井上赳(この人が「月光」の作者らしい)は、『日本教科書体系』「近代編第7巻解題」で、以下のように書いている。

両読本が教材選択に関し「児童ノ日常生活ニ関スルモノ、田園趣味ヲ要請スベキモノ」といふ標準を掲げたのは注意に値する。特にその一は当時教育界に漸く叫ばれ出した「児童本位」「児童中心」の教育思潮に適合せんとするものであり、今日の所謂「生活教育」に関係を有する。さうして両読本が同じ目標に向かつて努力しながら、結果に於ては、ともかくも、尋常小学国語読本の低学年・中学年に新味ある材料や表現ものが多かつた。世間では何時の間にか尋常小学読本を都市用、尋常小学国語読本を田園用といふ風に考へるやうになつたが、しかし編纂者にしてさういふ意図があつたのでなく、専ら田園の色彩が、尋常小学国語読本に於て濃厚に出たためであつた。(25−26)

なるほどね、ということで注目されるのは、自由主義的思潮というか、「児童本位」「児童中心」という部分。というのは、高木さんが国語読本で実現しようとしたことが、「叙事詩」的ストーリー性であったり、リアリズムにもとづいた写生的文章であったりしたからだ。このリアリズム重視という要素が、「児童中心」という理念とどのように結びつくのかは、詳細には分からないが(直接は結びついていないかもしれないが)、いずれにしても、大正期の自由主義的思潮のなかで、赤い鳥運動を生んだ文芸的関心などもふまえて、国語教科書の内容は決定されていったようである。
だが、高木さんの夢は見事にしぼんでしまった、というのがその結末だった。それは、大正9年の官制改革にともなう教科書調査会(大臣の諮問機関)が、教科書の記述に口出しをするようになったせいだった。

 調査会の構成は会長以下二十人程度の委員から成り、会長には初め沢柳政太郎という教育界の大物が就任し、次いで先述の三土忠造が選ばれました。委員には、今で言えば学識経験者や政界軍部の代表が顔を揃え、この中に、わたしの立場から見て、教科書を否定するとしか言いようのない人物が幅をきかしていたのです。この小姑的連中のおかげで、わたしの抱いていた教科書への夢がみごとにしぼんでしまったと言ったら言い過ぎでしょうか。(29)

じつは、実際にはこのような調査会を設けておくことで、よりいっそう直接的な軍部や政治家からの介入を避けられたという側面もあったようであるが、とにかくこれに嫌気がさして、高木さんは二年で文部省の仕事をやめてしまったという。
さて、思ったこと。現在から見て興味深いのは、教科書の記述が、学年に合わせてオリジナルに書き下ろされていることだろう。実際に全体を読んでみれば分かることだが、正直、たいへん興味深く読めるのが特徴となっている。それこそ現行教科書の場合、無難な小説家の無難な文章を目配り良く配列したために、かえって無味乾燥に陥っている部分も少なくないのではなかろうか。というのも、これが現在の教科書の最大の欠陥だと思われるが、いわゆる通俗的で大衆小説的な文章は、教科書には決して取り入れられないからである。「月光」の、この歌舞伎的センスを見よ!分かりやすい勧善懲悪物はたしかに下品な感じがするが、こういうものに血沸き肉踊るのもまた、小学生というものなのである。私は小学校の時に吉川英ニ『宮本武蔵』を読み耽り、後戻りの効かない精神的刻印を押されてしまった人間であるが、そりゃ少しは後悔するけれど、小学生というのはそういう生き物であるだろう。せめて江戸川乱歩の少年探偵団シリーズのような、ああいう背徳感に浸らせてあげることは必要なことのように思われる。
誰からも文句の出ない教科書を作ろうとして、お上品になりすぎているのが現在の教科書事情であるならば、戦前教科書は執筆に責任がある分だけインテリジェンスが反映されており、見直される部分がある。もちろん軍国主義な所もあるわけだが、子どもの気持ちの昂ぶりが十分考慮されていた点は、冷静に評価されるべきであろう。