社会諸科学の自律

『日本の社会科学』(石田雄、1984年)より、特殊な関心からするメモ。

 ドイツ国家学を摂取する場合に、その中にある自由主義的な側面は意識的に排除される傾向があった。たしかにプロシヤ型の近代的発展は国家が社会に優位するという特徴によって、社会が国家に優位するイギリス型に比べれば、日本により適合的であった。しかし、ドイツはいかに保守的とはいえ、フランス革命の影響から自由であったわけではなく、すでに三月革命(一八四八年)を経験している。……
 したがって日本においては、ドイツの理論をそのままとり入れるわけにはいかない。ドイツ国家理論の中にある自由主義的要素を排除するだけではなく、より積極的に日本の歴史の中にある神秘的なパトリモニアルな要素を接合しようとする。……
 したがって日本の憲法学においては、どのようにパトリモニアルな要素を説明するか、あるいはこの要素とドイツ国法学の憲法理論とのどちらを強調するかによって論争が起ってくる。……
 同じ国家学の系譜をひくものの中から独立した社会諸科学が分化していく知識社会,学的条件として、学問の政治・行政からの分離をあげることができる。まだ一八八七年(明治二〇年)の段階では、卒業式の演説の中で渡辺洪基総長が「内閣総理大臣秘書官金子堅太郎氏ニ日本行政法ノ講義ヲ嘱シ」と述べている状態であった。
 ところが世紀の変り目ごろから変化が現われる。吉野作造は、彼が大学にいた一九〇一、二年(明治三十四、五年)頃の東大を回顧して次のように述べている。「それ以前に在ては政府でも条約改正だ法典の編纂だ弊制の改革だと新規の仕事に忙殺され、従て学者の力を籍る必要も繁かつたので、帝大教授は陰に陽に大抵それゞゝ政府の仕事を兼ねさせられて居たものらしい。今日は閣議がありますからとて講義半途に迎の腕車に風を切つて飛んで行く先生の後姿を羨しげに眺めたことも屡々ある。ところが明治三十四五年の頃になると、政府に於けるそれ等の用事も一ト通りは片付いたばかりでなく、少壮役人の中に段々学才に富む人物が輩出して、為に大学の教授の助力をかる必要がなくなって来た。……斯う云ふわけで帝大教授と政府の腐れ縁は漸を以って薄らいで来るのであるが、茲処から私は自ら二つの結果が生まれて来たと考へる。一つは……初めて教師と学生との間の親密の連鎖を生じたことで……二は教授の境遇を独立にし意識的いも無意識的にも何等の拘束を感ずることなく自由に研究し公表するを得しめたことである」と。このようにして、ようやく官学アカデミズムの自立性の条件が具わりはじめたといえよう。(40−42)

明治の半分は、おそらく江戸を終らせるために、費やされている。