『眠れる美女』

風邪で弱っているせいか、頭がぼうっとする。それにずっと眠い。歩いているときでさえ、眠いのだ。身体も重い。
活字が頭になかなか入ってこないので、紅茶を飲みながら、川端康成眠れる美女』を読んだ。老人が若い美少女のそばで眠る、秘密くらぶの話。

たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。(9)

というのが冒頭の文章だが、私は、

家のそとにかすかなみぞれの音がする。海の音も消えているらしい。海の水にみぞれが落ちてとける、その暗く広い海が老人に見えて来た。一羽の大きいわしのような荒鳥が血のしたたるものをくわえて、黒い波すれすれに飛びまわっている。それは人間の赤んぼではないか。そんなことのあろうはずはない。してみると、それは人間の背徳の幻か。江口はまくらの上で軽く頭を振って幻を消した。(78−79)

という描写が気に入った。これは乳臭い、富士額の娘と寝ているときに、老人を襲った幻である。
江口老人は、自分だけは秘密クラブの他の老人達とは違うのだ、と繰り返し言っている。だが、確実に快楽の虜となっている江口老人の独白とはまるで無関係に、欲望と幻と日常と事件とは、ただただ積み重ねられていくばかりである。
「この家には、悪はありません」という宿の女の言葉は、人間の抱く欲望の世界をさらに深い部分で包み込む、倫理を超えた世界の手触りを、われわれに呼び起こさせる。
悪が、対象との距離の程度によって、見いだされたり、見いだされなかったりするものならば、眠れる美女の前で傍観者でいるごとく、たとえ絶対的な悪を前にしても、われわれが傍観者でいることは可能であろう。
世界には、善も、悪も、倫理も、背徳も、何物も存在しない。事実だけが存在するのだ、とも言えようが、それすら幻なのかもしれない。(娘は眠りながら生命を失い、老人は幻を追うように生に執着する。現実は宿の女によって徹底的に取りのぞかれる。いやむしろ、老人にとっては幻こそがもっとも現実的なのだろう。そもそも、宿の女が現実を取り除くことができるのは、現実が記憶のなかでしか重みをもたないからなのだ。)

眠れる美女 (新潮文庫)

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