『労働政治 戦後政治のなかの労働組合』(中公新書)

久米著。複雑な労働組合運動の戦後史を丹念に記述していて、勉強になる。ただ、読みやすさという点からいえば、第二部の歴史叙述を最初に持ってきた方が効果的だったのではないか。理論的視点も十分に興味深いが、その面白さは、歴史的知識を前提しているように思われるからである。なお、かならずしも理論的視点とその歴史叙述が整合的でないように感じられた部分もあったので、以下、説明しておこう。
まず最大の問題だと考えられるのは、1990年代以降の「連合」の改革志向の弱まりが、「労働戦線の統一」が拙速に進められたことに起因する、との結論である。これは本書の主張の骨子なのだが、あまりに単純化した見方ではないか。
著者によると、1975年の「スト権スト」をめぐる動きを分水嶺として、「官公労」を中心とする「総評」のイデオロギー的政治主義から、民間労働組合を中心とする「経済整合性」路線が分離することになったという。その後、民間労働組合は(鈴木内閣以来の)行政改革路線を支持し、さらに同時に、IMF−JC主導による(ギャレット型の国際競争力を前提とした)経済合理的な労働運動を展開することに成功した。しかし、こうした経済合理性の追求・実現は、「路線問題」を不問にした労働戦線の統一によって見失われてしまった、と著者は結論する。労働組合が全体の利益に望ましい結果をもたらすのは、①包括的利益団体として幅広く組織され、②その内部では民間労働組合に主導権が握られている場合であるが(256)、このうち②の条件が、「連合」においては実現されていないからである。
だが、ここで考える必要があるのは、1980年代における「経済合理主義」と、1990年代以降における「経済合理主義」の中身が、はたして同一のものかという問題である。第三章において著者は、1990年代の「連合」が、「総論賛成/各論反対」の姿勢のもとに「非改革志向」的であったと示唆している。しかし、政府の規制の抜本的な見直しをせまられていた1980年代と、「市場主義のなかでどの程度公共部門が維持されるべきか」という問題が浮上してきたであろう1990年代以降とでは、おのずと「経済合理主義」の中身が変わってくるのは明らかだ。そうした時代変化をふまえずに、「連合」内部の歴史的要因にのみ「連合の非改革志向」の原因を求める記述には、どうしても違和感が残る。
さらに、「連合の非改革志向」をもたらす、別の要因を考えることもできるだろう。それは著者自身が第三章であげているとおり、「グローバリゼーション」と「政界再編」という要因である。産業構造の変化によって、非正規雇用の割合が増加しているという事実は、労働組合が追求すべき利益が何であるのかを不透明化させ、「経済合理性」の基準を揺るがすものでありうる。また、自民党の一党優位体制が瓦解したという事実も、労働組合のあり方を変容させる重要なファクターだろう。ところが著者は、このような要因を示しつつも、「連合の非改革志向」の原因を「拙速な労働戦線統一」に収斂させ、議論を単純化する。不必要な単純化ではないか。
以上とも関連して、本書の「連合」の未来像をめぐる叙述にも、首をひねらざるをえない部分がある。著者は、ウィットマンの利益団体政治に関する肯定論を参照し、これからの労働組合が、新古典派的改革論者に対抗し、「情報の提供をつうじての政策決定の質向上」に貢献すべきだと論じている(265)。その方向性自体は認めてもよいが、その際には、1990年代の「連合」の「非改革志向」の内実が、やはりくわしく再検討さねばならないだろう。著者は、橋本行革における芦田会長の発言(「行革には光もあれば影もある。光を求めて改革するが、影の部分を放っておいていいわけがない」)を引きつつ、「問題は、影の部分への対応と既得権益の擁護の主張とが、連合の中でどのように仕分けられるかであった」(110)と述べる。これはたしかに「問題」であって、「影の部分への対応」とは、「情報の提供をつうじての政策決定の質向上」にほかならないのだから、それが「連合」においてどれほど無視されていたのかを説得的に論じることが、著者の行論上、必要な作業となるわけだ。ところが、その記述は十分に展開されているようには思われない。「連合」が既得権益にしがみついていることが自明でないとしたら、このような叙述は不備でしかないだろう。
と、批判的に紹介してみたけれど、全体的としてはinformativeな良い本ですよ。