「しゃべり場」についての考察

しゃべり場スペシャル」というのを見てみたら、渋谷のギャルと青森の真面目な大学生が話し合っていたので、面白かった。「しゃべり場」は最初は大変面白かったが、すぐにマンネリ化がひどくなり、長らく方向性を見失っているようだったけれど、今日のスペシャルのように、個人対戦形式にすればよいのである。
しゃべり場」が面白かった理由、そして面白くなくなった理由を分析してみよう。まずは、面白かった理由から――「10代の声というのが意外と珍しいものだったこと」、「青臭いが、誰もが一度は考えた問題が提起されていて、議論が共有しやすいこと」、「青臭いので、いくらでも突っ込めること」、「青臭いので、時には本質的な問題が提起されていたりすること」など。
この背景には、学校の勉強など、手段的価値が自明視された時代(=近代過渡期)がおわり、テレビマンが気付かないうちに、10代の思考が多様化していたことがある。「しゃべり場」はこれをうまく掬い上げたわけである(近代過渡期の10代の悩みは、「中学生日記」の形式で表現可能)。
では、なぜ面白くなくなったのか。考えられる理由は、「いくら多様化したとはいえ、所詮、10代の悩みなど類型的にすぎないこと」、「青臭すぎて、真面目に付き合うのが馬鹿らしいこと」、「強い主張をもった10代ばかりがクローズアップされていること(=本当に賢い10代は、たかだか10代で自分の意見など主張しない。頭の悪い10代ほど「自分の意見」とやらに固執する)」、「そもそも番組を長く続けすぎていること」、「元10代のマンネリ化」など。
このうち私がもっとも気になるのは、やはり「強い主張をもった10代のいかがわしさ」だ。番組自体、「10代が意見をもつのは良いことだ」という前提だが、それはすぐにでも路線修正すべきだろう。適度に、「意見のない10代」を入れておかないと、場が活性化するわけがない。強い意見は、単純な思考のうえに成り立っているために類型化されやすく、類型化された言説のなかに、大人にとっての発見はない。あるいは、あれは子ども向け番組なのかもしれないが、子どもに類型的単細胞思考を推しつけるのも、それはそれで犯罪的だろう。
というわけで、今日のような少数個人対戦形式にすれば、その弊害はかなり薄れるのである。そして対戦する相手は、互いに異質であれば異質であるほどよい。あまりに異質であれば、歩みよりが必要になり、そこに類型化が崩れる瞬間が生じやすくなる。ギャルと優等生が話すのは、すばらしい組み合わせである。
10代の主張は、疑問形式であるべきだ。10代の出した回答なんて、つまらないに決まっている。10代の「迷い」のなかのリアリティを楽しむ番組だったのに、いつのまにかただのディベート番組になってしまっているのが、「しゃべり場」の魅力低下の原因だろう(と、言えるほど、ウォッチャーであったわけではないのだが、いちおう言ってみる)。