普遍教会

昨日の続き。
ゲルマン人のアラリクスが5世紀にローマ帝国に侵入し、476年に西ローマ帝国は滅亡するわけですが、その後はクリスト教が領域を支えることになった。それでまあ、クリスト教の制度化の問題が生じてくるわけだが、とりあえず正典と儀礼が確定され、聖職者の職制が決定され、さらに5世紀中ごろにはローマ法に対して教会法が備えられる。これで教会は自律性を確保するにいたった。で、世俗化による宗教的エネルギーの弛緩および異端の発生などは、修道院制度によって手当てされつつ、他方、そうした教義や制度を理論的に弁護する「教父哲学」が、この古典古代末期において誕生することになる。
教父哲学において教会は、「まさにイエスが福音として説いた神の国の実現、その制度化であり、福音を受けいれるすべての者の共同体」として定義される(99)。したがって、たとえばアンブロシウス(333−397)なんかは、世俗権力に対する教会権力の優位性などを主張していたのだが、いよいよ教会が世俗権力と同一化するようになる5世紀頃には、「両剣論」が唱えられるようになる。

皇帝のもつのは物質的な剣であるのに対して、教皇のもつのは精神的な剣であるが、この二つの剣、つまり宗教上の権威も世俗の権威も、ともに神が下さったものである。……こうして宗教上の権威と世俗の権威、司教権と皇帝権は単に分立しているだけでなく、協力せねばならない。(103)

こうしてローマ法と教会法の棲み分けが規定される。なおまたこの時期(5世紀末?)になって、「教会という組織は、イエスから権威が来ているという伝承の上に立っていて、このころになると、イエスがあらかじめ自分の弟子のひとりであったペテロに天国の鍵を渡したという伝承が確立する」(103)。