Augustinus

354−430。けっこう長生きですな。
彼といえば『告白』が有名だが、これは信仰の記録、神の讃美として書かれたものなので、近代の自我の話とはちょっと違う。もともとマニ教の二元論にはまっていたアフリカ人Augustinusだが、アンプロシウスや新Platon派のプロティノスの影響を受け、「人間の内面に還る」哲学を生み出すようになる。

……たしかにプロティノスを通じてのPlatonの存在論がAugustinusの哲学にあり、それとクリスト教の信仰とが結びついて、ロゴスあるいは第一存在がクリスト教の神と同じものとみなされるが、そこに至る過程では、彼は何が確実なものであるかを問いながら内面の旅路を彷徨したのである。……(彼は)、自分が疑うこと自体が確実性の源泉になると考えるようになる。この点が、Decarteとよく比較されるのであるが、Augusutinusの場合には、……神への信仰と、超越者の存在と結びつくのである。
その場合、Augustinusに非常に著しいのは、人間が無力だという考え方である。これはクリスト教徒であるから当然のように見えるが、彼はとくに人間の原罪や無力を強調し、そして個人的な神の恩寵を強調する点に特色をもつ。……とくに有名なPelagiusとの論争においては、Augstinusは意志の自由を否定する。……すべては神の恩寵であるとして、他力を強調しているわけである。……その神の世界計画を永久法という言葉でよび、それが神の言葉によって万民に啓示されるとき、これが万民法であると考えた。(107)

ギリシアの世界には、本来の歴史意識、すなわち1回限り起こる事件の連鎖として時系列に添って一方向に流れる歴史意識というものはない。……(ユダヤ預言者たちと同様、)Augustinusの場合にも歴史は全人類を救済するという神の目的に向かって進んでいく過程であり、救済史であって、終末の設定によって循環の考え方をうち破っていく。
……歴史の究極目標は神の世界計画の実現であり、一体としての人類の救いである。その目的に向かって歴史は進行して行く。そこから「神の国」と「地の国」という対立が生まれる。……「地の国」は過ぎゆくもの、終りの日にはなくなってしまうものである。それに対して、「神の国」だけが永続し、やがて一切の対立と闘争との消滅する平和の状態に入るのである。(109)
(彼の「地の国」としての国家観は)、Ciceroの『国家論』に従いつつそれをクリスト教的に変容したものである。…しかし「地の国」が、Ciceroのいう意味での国家republicaであるのは、法や正義についての合意があるからである。……(彼は)それゆえに、もし国家が正義を欠くならば、それは盗賊団にひとしいと言う。……Ciceroのいうような正義に基づく国家は、信仰によってはじめて可能である。だから国家の実質はクリスト教国家であると主張するのである。(110)

のちの宗教改革がAugustinus派の修道士によって導かれたことを考えても、彼が内面の問題に取り組んだことがきわめて重要なポイントでしょうな。
チェリビダッケ・エディションのフォーレストラヴィンスキー「レクイエム」の盤を聴きながら書いているのだが、あやしい気分になってくる。逆に、浅草とか行きたい。いや、動物的に反応してみるとさ。
とにかく、つらつらと昨日からメモってきた事実をふまえて、いつか応用問題としての引用を行う予定。