『男どき女どき』

昨晩、寝しなに向田邦子のエッセイを読んでいたのだが、やはり良いなあ。骨っぽい所があるのが、良いのだと思う。まずは、森繁久弥の話から。

大きい山は、よじ登っている時にはその全貌は見えないものです。
裾野は広く、懐ろは深く、変化自在。
私はこの頃になって、何という巨きな役者と、おつきあいしていたのだろうと、そら恐ろしくさえなります。
この人からは、さまざまなことを教えていただきましたが、一番大きなことは、
「ことばは音である」
ということでしょう。
「馬鹿」
私が書くこのひとことのセリフを、森繁さんは、その時々のシチュエーションにふさわしく、百通りにも二百通りにも、いろんな人間がいるんだなあ、と書いた人間をびっくりさせるほど、鮮かに、空気の中に立ち上がらせてくれました。
森繁久弥の千の馬鹿」――こんなLPを出して後世に残してもらいたいと思うくらいです。(『花束』131)

立川談志師匠も、日本のあらゆる芸人のうち、もっとも偉大なのは森繁だと断言している。たしかに、『如何なる星の下に』などの演技は、私にも印象深いものだった*1。でも、その偉大さの意味というのは、正直、まだよく分からない。これから確かめていきたいことだ。
こういうあっけらかんとしている感じも、好き。

教室よりも運動場の好きな女の子が、物を書くようになった動機は、恥ずかしながらお金のためである。……
私は、至って現実的な人間で、高邁な理想より何より、毎日が面白くなくては嫌なタチである。勤めはじめて七年目。ぼつぼつ仕事に馴れてあきて、スキーでうさばらしをしていたのだが、その資金かせぎで始めたアルバイトが段々と面白くなってしまったのだ。……
こう書くと、水すましのように、スイスイきたようだが、世間様はそんなに甘くない。極楽とんぼの私でも、ああ、困ったな、と思うことも何度もあった。
そういう時、私は、少し無理をしてでも、自分の仕事を面白いと思うようにしてきたような気がする。……
どんな小さなことでもいい。毎日何かしら発見をし、「へえ、なるほどなあ」と感心をして面白がって働くと、努力も楽しみのほうに組み込むことが出来るように思うからだ。私のような怠けものには、これしか「て」がない。(『私と職業』135−136)

あと、こういうエピソードね。

これも随分前のはなしだが、前の晩にテレビで見た野球の試合を、朝必ずスポーツ新聞を買ってたしかめる人を、勿体ないじゃないの、お金と時間の無駄使いだといったことがあった。
その人は、私の顔をじっと見て、
「君はまだ若いね」
といった。
「野球に限らず、反芻が一番たのしいと思うがね」
旅も恋も、そのときもたのしいが、反芻はもっとたのしいのである。(『反芻旅行』143−144)

間違いない。