Dさん

S(イギリス人)がそうしたように、社会を生物学のメタファーで見ることは正しい。

  • ……我々が区別したばかりの現象群の各々は相次いで異なる二つの観点から検討され、こうすることによって二つの科学を生み出すことが可能となろう。……このようにして我々は生物学全体を支配している二つの大きな区分、つまり一方では諸機能と、他方では諸構造とを見出す。そして前者には生理学が、後者には形態学が対応するのである。

ここでDは、次のような方法論的決断を下している。

  • しかし我々の探求過程においては殆どもっぱら生理学的見地に立つものであり、そうすることの理由は以下のとおりである。……

どういうことか。

  • こうした事例が証明しているのは、社会の諸器官における構造のある柔軟性である。社会生活の諸形態は非常に柔軟であるがゆえに、当然何らかの流動的で不確定なものを有しているのであり、それらは科学的観察に手掛りを与えることが一層少なく、接近するのがより困難である。それゆえ、社会生活の諸形態から(研究に)着手するのは適当でない。
  • 構造が機能を前提とし、そこから由来するということが真理となるのは特に諸社会に関してである。諸制度は命令によって確立するものではなく、社会生活から結果するものであって、明白な諸象徴によって社会生活を外部に表現するにすぎない。構造とは固定化された機能であり、習慣となり結晶化した行為なのである。

つまり、構造=制度は可変性が高いので、ここから機能を特定化することは困難である、したがって、社会の複雑性をふまえ、機能から構造(=固定化された機能)を発見することが方法論的に妥当である、との主張である。(SSA訳:82−84)。