Dさん――その規範性は?

まずは、もはや聞き飽きつつある引用から(以下、1909年)。

  • …しかし、このような様々な研究は、ある本質的な特色によってしゃかい学という言葉が示す諸研究とは異なっていたのである。実際、それらの研究は、諸社会を今あるがままに、あるいは過去において存在してきたままに論述し、説明することを目的としていたのではなく、社会とはいかにあるべきか、社会が出来得る限り完全であるためには、どのように組織されなければならないのかを探求することを目的としていた。(SSA訳:110)

Dは「確立した諸命題の適応可能性を見出すことは、必要があれば、他の人の関心に任せるのである」と述べている。このように、規範や実践可能性を問うことは、徹底的に斥けられているのである。それは「科学」の任務ではなく、「術」のレベルで副次的に現実に良い効果を与えるにすぎない。とはいえ、問題が複雑なのは、ここで「実証主義的に社会の法則は操作されるべきだ」という「新たな規範」が見出しうることである。つまり、「世俗化された宗教」としての規範性は、じつは手放されてはいないのである。
すなわち、世俗化された倫理としての「実証主義」が、Dにとっての新たな規範であったと考えられる。社会的諸事実の法則性を探求することが、その規範に適った方法論だったのである。もちろん、MやKのように、法則性の存在に気づいていながら、それらを「人間性」の内部に見出し、決定論的分析に終ってしまった失敗を繰り返してはならない。法則から演繹的に導かれる分析など、社会の複雑さ(=可変性を含む)を表現しうるものではないのである(またCは社会の多元性の観念を有しなかった)。
ちなみに、その実証主義の徹底は、終わることはない作業である。

  • ところで、実証諸科学は、その本性そのものにおいて決して完成されるということはない。実証諸科学が扱う諸々の現実は過度に複雑であるので決して枯渇し得ないのである。(117)