Dさん――その保守性は?

といって、Dを保守的な思想家と見なしては間違いだろう。「法則」は可変的なものであり、あくまで介入可能なものとして概念化されている。

  • ……しゃかい学は社会の現実に関する諸法則を発見することによって、過去になした以上に省察によって、歴史的進化をキョウ導することが可能となろう。なぜなら、我々がその諸法則に適合させることによってのみ精神的ないし物理的本性を変え得るからである。……諸科学は、諸事物の必然性を支配する手段を与える。(114)

ただし、素朴な社会実在論のニュアンスが感じられるのは、否定できないところだろう。Tの心理学的方法を批判する箇所で、Dは社会について次のように言うのである。

  • 細胞の中に無機的諸要素しかないとしても、それらの要素は、一定の仕方で結びつくことによって、結合していない時には持っていなかった生命の象徴となるような諸特質…を生ぜしめる。……同様に、諸個人意識は、安定した仕方で結合することによって、したがって諸個人意識間でとり交わされる諸関係によって諸個人意識が相互に孤立していた時に、それらの意識の舞台となるであろう生とは甚だ異なった新しい生を産み出すのである。すなわち、この生とは社会生活である。(115)

この記述自体はまったく問題ないのだが、昨日も指摘したとおり、これらの主張を「個人の外部」と表現してしまうと、集合表象は表象であるかぎり個人の意識内をおいて他に観察できない、という大前提が崩れてしまうことになる。すなわち、素朴な社会実在論へと接近することになる。ここら辺が、保守的イメージの源泉となっている可能性がある。