『丸山眞男の時代』

丸山眞男共産主義への肩入れが、戦前右翼活動の恐怖心から来ていたというストーリー。とりわけ、蓑田胸喜と原理日本社が、昭和三十年代後半をピークに行っていた活動――帝大粛清活動が丸山に与えた影響を大きく見ている。

三〇年代の悪夢は、戦後の丸山の認識と戦略を規定した。中国の人民公社や百家争鳴運動に対して手放しに近い賛同をしたように、社会主義国への批判は少なく、他方で、「日本の政治、経済、社会全般にわたって現在『健全』と考えられているよりもずっと『左』の政策が推し進められねばならぬだろう」(「戦後日本のナショナリズムの一般的考察」『集』五)、とウィングを左に張ることを強調した。あるいは、英米的民主主義対ソ連共産主義という対立軸を日本社会にもちこむことを否定し、共産主義を民主主義の側にもとめなければならない、共産主義にシンパシーをもつものが自由主義者だ、とさえ言明している(「ある自由主義者への手紙」『集』四)。(119)

といって、丸山のやろうとしていたことは大衆啓蒙にすぎず、彼はインテリ/亜インテリ/大衆の三層構造で社会を観ていたから、これはあくまでプラグマティックな政治的判断としてとられたポジションでしかなかったといえる。その証拠に、1955年の六全協において極左冒険主義の否定・旧国際派との統一が決定すると、丸山は、国際派の幹部だった安東仁兵衛に対し、「これまでのシンパは党の外に向って反共とたたかうことが中心であったが、これからは党に向って党にたいする批判をキチンとおこなうことである」(趣旨)と機嫌よく語ったという(125)。丸山は、ファシズムにつがなる大衆の挙動をもっとも恐れていたのである。
丸山がなぜあれほどまでに威信を持ちえたかの分析も秀逸。

丸山の専攻する日本政治思想史は、法学部の学問であるが、文学部にも近い学問であることにとりあえず注意したい。したがって、文学部がアカデミズムで法学部がテクノクラティズムというわけではない。文学部は政治的社会活動を遮断した純粋アカデミズムの力が作用するが、法学部はテクノクラート的学部であるぶん、法学部的アカデミズムは必ずしも社会的活動を遮断しないことになる。/丸山が文学部教授でなく、法学部教授であったことによって象徴資本と専門的能力を政治場やジャーナリズム場に投下し、場の重層効果が可能になり、重層性から増殖利潤を得ることができたというのは、このような意味においてである。(185)

……丸山のほうは、政治活動においてもジャーナリズム活動においても慎重に身を処したこともあるが、丸山がもし文学部教授だったら、そのような慎重さが功を奏したかどうか……。象牙の塔の外での活動を遮断する傾向の強い文学部においては、丸山的慎重さの余地がなくなり、文学部的アカデミズムに閉じこもる学者的学者か、その反対のジャーナリストになってしまうかの二つの選択肢しかなかったのではないだろうか。(188)

また、丸山の政治思想史が、その非実証性において批判されないで済むような時代的タイミングも存在していた。

…丸山にとって幸いだったのは、丸山の「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関聯」が発表されたころの日本史学の学問的状況だった。そこでは、アカデミズム史学の中心だった『史学雑誌』で、平泉澄などの皇国史観派が幅を利かせるようになり、他方で旧来の実証史学に飽き足らぬものを感じた若い史学者が「歴史学研究会」(「歴研」)を結成していた。したがって歴史学研究会で活動した若い世代の歴史学者にとっては、敵は法学部や経済学部などに所属する歴史研究者ではない。同じ国史の年長世代である。学問領域内部で世代間闘争がおこっているときには、学問領域を超え仲間意識や共闘さえ生まれる。(194)

したがって、丸山は右翼が自滅し、また消費社会化によって左翼活動も地すべり的に没落することによって、「スランプ」を迎えることになったという。
あとは、小ネタ。

…蓑田の激情型パーソナリティも、蓑田の高校や大学時代である大正時代の中で後押しされた。というのは、こういうことである。知識人やその予備軍にとっての大正期の特徴について、日本史学者の伊藤隆は、単なるデモクラシーのタイ頭というよりも左右をとわず社会改造を志向する「革新」のタイ頭の時代だったおちう。大正時代をイデオロギーの内容(マルクス主義やデモクラシー)よりも、革命と反革命がないまぜになった現状打破の「革新」(内容よりも強度)の時代としてとらえている(『大正期「革新」派の成立』)。…(75)

橋川も「めざましい激動期」として、大正7、8年(1918、1919)を考えているらしい。もうひとつ。

一九三九年三月二四日、第七四回帝国議会衆議院で日本学を体系化する講座の増設などによる「帝国大学粛正に関する建議案」が提出され、日本経済学講座や日本政治学、日本憲法学、日本教育学等々の日本諸学を振興していく案が採択された。(100−101)

以上。参考→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051116