『自由』

齋藤先生『自由』(2005)(岩波書店)の第一部を読んだ。
齋藤先生の見るところ、「近代のリベラりズムが一貫して警戒の視線を向けてきた〈国家〉が、《ある側面においては》、人びとの自由を脅かすものではなくなってきた」(17)というのが、現在、一番のポイントである。「そうした集合的な『主体=実体』が人びとの生に及ぼす統合の力が低下し、いまや《統合の過剰》というよりもむしろ《分断の深化》によって自由に対する制約や剥奪が惹き起こされている」。それゆえ、「リベラりズムの批判はその標的を失うことになる」。これが、先生の情況認識。正しすぎる。
そこで「自由」概念の再構築である。「自由」とはそもそも、何の脅威から守られるべきものなのだろうか。

  • 生命や所有を侵害するような暴力が生命の安全を脅かしているという観点からすれば、自由への脅威は〈他者〉であろう。政府による規制がなおも経済活動の自由を阻んでいる、あるいは、治安の強化が言論の自由をはじめとする市民的、政治的自由を再び脅かしはじめているという視点に立てば、それは〈国家〉であろう。多数派の支配的な価値観が、たとえば女性や制的少数派の自由な生き方をなおも阻んでいるという点を重視すれば、それは〈社会〉であろう。グローバル化した市場機構が経済的・社会的な格差を拡げ、ある人びとの生存そのものを脅かしているという見方をすれば、それは〈市場〉であろう。(16)

〈他者〉からの自由――Hobbes、Rock。〈国家〉からの自由――kant、Tocquiville、Smith。〈社会〉からの自由――Mill。 〈市場〉からの自由??Rous。〈市場〉を〈国家〉によって統治―― Hegel。〈市場〉の脅威とともにある〈国家〉の脅威――Marx。〈市場〉からの自由――Hobson、Green、Hobhouse。番外編で、〈共同体〉からの自由――丸山、樋口。番外編だけど、重要。
次に、「消極的自由」批判について。

  • これらの批判によれば、この自由(「消極的自由」――引用者)の概念は、(1)選択肢を質的に区別し、その価値を比較する視点を欠いているという点、(2)選択肢が行為者にとって現実的にアクセス可能なものであるかどうかを度外視する点、(3)選択肢が行為者自身の内的な制約によって閉じられることを問題化しえないという点、(4)意図的な干渉によらない構造的要因ゆえに生じている不自由や不作為によって放置されている不自由を自由の制約・剥奪としてとらえることができないという点、(5)干渉が不在である場合にも支配が存在することを適切に批判しえないという点、(6)他者との〈間〉ではじめて教授されうるような政治的自由をその概念から締めだしているという点において問題を含んでいる。(53−54)

(1)――Taylor。(2)――Sen。(3)――Sen。(4)――Young。(5)Skinner、Pettit、Viroli。(6)――Pitokin、Arendt。
(5)と(6)の違いが分かりにくい。「『ローマ的伝統』が、能動的な政治的自由の実践そのものを強調するわけではなく、それを非政治的な自由を維持するための手段として見なすのに対して、『ギリシア的伝統』に立つArendtは、政治と自由とは同義であり、政治は非政治的自由をまもるためのたんなる手段ではないことを強調する」ということらしい(47)。
したがってArendtは、「政治的存在者の自由、つまり、自らの言葉や行為によって他者の前に現れる自由を人びとが互いに保障し合う関係が失われたことに全体主義の台頭と制覇を許した要因を見る」(49)。つまり、「他者との出会い」という点において、政治的であることにきわめて規範的なのである。ギリシア的ポリスとの一体化!