何となく不発な感じ――D平等論

なかなかうまく生活リズムが作れない。今日読んだ論文の覚え書き。
社会が有機的に連帯するようになると、地位や財産の相続によってもたらされる「外在的不平等」はしだいに除去され、生得的な能力や才能の差異にもとづく「内在的不平等」が社会の構成原理となっていく。そこでは私有制度は存続され、能力による「結果の不平等」は容認されることになる。分業が自発的に組織される限りで、それは新たなmoralを実現した社会秩序をもたらすのだと想定される。

  • 自発性の想定するところは、たんに個人が一定の機能に強制的に追いやられないということだけではなく、さらに個人が社会的枠組みのなかで自己の能力にふさわしい地位を占めることを、いかなる性質の障害によっても妨げられないということである。要するに、労働の分割は、社会的不平等が自然的不平等を正確にあらわすように社会が構成されているばあいにのみ、自発的におこなわれる。(DTS:364:102)

「社会的不平等=自然的不平等」であれば、それは「不平等」というよりは、「差異」とでも表現すべき、規範的にニュートラルな構成原理となるということだ。
しかし、配分的正義をつきつめていったとき、「才能の不平等」は、はたして「不平等」ならぬ「差異」で済まされるのか、という問題にぶつからざるをえない。以下の文章は、完成した表現にまではいたっていないが、大変重要である。

  • ……人間的共感に照らしてみれば、例の才能にもとづく不平等すら正当化されえない。なぜなら、われわれの愛するのは、また愛すべきは、人間としての人間であって、天才の学者、敏腕な実業家、等々としての人間ではないからである。根本においては、才能の不平等もまた、ある程度その責任を当の人々に負わせることの妥当でないような偶然の不平等、出生の不平等なのではあるまいか。……愛chariteの道徳の領域がここからはじまる。愛、それは、これら最後の不平等の議論をものりこえて、遺産相続の最後の形式たる精神的遺産の移譲を個人的才能とみなすことも打消し、否定してしまうにいたる人間である。(LS訳:265:115)

したがって、やはり「不平等」は「差異」としてではなく、あくまで「不平等」という語句によって表現されねばならなかったのだということになる。
しかし私見によれば、ここには「理論の揺れ」があると思われる。能力の「差異」は「不平等」なのか、あるいは――こういってよければ――「個性」なのか。このいずれの立場に立つかによって、能力主義をめぐるスタンスはまったく異なってくる。上記引用から判断すると、「不平等」のニュアンスが若干濃いのはたしかである。しかし、道徳的個人主義を実現したうえで、moralな分業形態への人々の自発的なコミットメントを引き出しえたならば、そうした社会は「能力(格)差」ではなく、「能力の違い」によって構成された理想的な社会であるだろう。「能力」を多元的な尺度で把握すれば、それは序列的な階層関係におかれるものではなくなる。たぶん本当は、そういうことが言いたかったのだと思うのだが…(そして、実際どこかで言っているのではないか。発見したら引用したい)。