付け足し

19世紀末、勃興する資本主義経済を前に、(古典派)経済学は、コウリ主義的な理論モデル(=個人の欲求を説明変数とするモデル)を打ち立てた。しかし、個人の欲求を所与のものとするそうしたモデルは、社会的道徳的諸関係と経済的諸関係との深いつながりを不当に無視するものである。もちろん産業社会は、資本に固有な論理にもとづいた物象化された社会関係を帰結する側面をもっている。だが、その帰結はかならずしも必然的に導かれるというわけではないだろう。
すなわち、社会的諸規制を適切に加えていくことによって、近代社会を望ましいもの(道徳的個人主義!)にしていくことは可能なのである。ところが、経済学者らはきわめて短期的な病理的産業形態を所与のものとし、それぞれの経済理論を組み立ててきた。Marxだって、ロウドウ価値説という個人主義的な方法論的モデルで経済分析をおこなっている時点で、同様の批判が該当するのである。彼は、一時的に病理的な社会状態を、あたかも社会発展の必然的法則によって導かれたものとして、換言すれば、資本主義に内在する病理として、考える過ちをおかしたのである。――と考えた人がいた(ロウドウ価値説はたぶん、個人主義的なモデルとして解釈されたのではないか?、と言うのは私の解釈)。