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1902−1903年の講義が1925年にまとめられたもの。フランスにおける喫緊の課題が道徳教育であり、また道徳教育において初等教育が占める役割が大きいという認識のもと、初等教育における教育理念が説かれている。根底的な問題関心には、「宗教の世俗的再編」という課題意識がある。しかし、世俗的=合理的な再編は、道徳的要素を一掃するところに成立するのではなく、それは宗教的なるものの機能的代替物でなければならない。

  • われわれは、人間が今日まで宗教的なかたちでしか表象しえなかったところの、この道徳力を発見し、それから宗教的象徴という衣を剥ぎとって、これを、いわば合理的裸体として白日のもとに示し、かつまた、いかなる神話の手も借りずに、この道徳力の実在を児童に感じとらせるための手段を発見せねばならない(44)。

この道徳的世俗化は、「個人主義」という特性を備えている必要がある。「合理主義」とは、「個人主義」の「知的な様相」にほかならないからである。

  • さらにわれわれは、道徳の世俗化を通じて、道徳にあらたな要素を加えて、これを豊かにしなければならない。……じっさい、われわれが、完全に合理的な道徳教育の必要性を、祖先たちよりも一層強く感じているとすれば、それは、われわれが祖先たちよりもずっと合理主義者になっているからである。ところで、合理主義とは個人主義の一様相、すなわちその知的な様相にほかならない。この両者は、二つの異なった精神状態ではなくして、ともに表裏して一体をなすものである(44−45)。

さて、一昨日のエントリーでは、EPFの結論が「科学的実証主義の精神」主張で終わっていることを確認し、これと「道徳的個人主義」の主張との関連がどうなっているのか、疑問を呈示しておいた。以下に、その答えが示されている。道徳教育を確定する作業の困難性が、二点に整理されている箇所である。

  • ……第一に、道徳と宗教とは歴史的に緊密な結合の上にうちたてられてきたがゆえに、道徳の基本的要素には、宗教的形態のもとでのみ表現しうるものがあることだ。……第二に、合理的道徳は、理性以外の権威に支えられる道徳と、内容において同一ではありえない。……しかも合理主義は、個人主義と並行して進歩するのみならず、さらに個人主義にたいして反作用を及ぼし、かえってこれを促進せしめるものである。。不正とは、本質的に事物の本性に基づかないことであり、理性に根拠をもたぬことであって、われわれは、理性の法則に敏感になればなるほど、同時に不正にたいしても敏感にならざるをえない。(53、強調引用者)

すなわち、「事物の本性」に基づく「科学的実証主義精神」は、「事物の本性に背く不正」にたいして鋭敏な感覚を養成するがゆえに、「道徳的個人主義」の基盤となりうるのである。「今迄われわれの良心を悩ますことのなかった権利と義務の配分を、あらためて社会関係の不正として感知するような道徳的感受性を研ぎ澄ますことなくしては」合理的道徳の発展はありえないのであり、そのことは科学的実証主義=合理主義を通じて個人主義が洗練されるプロセスによって実現されるのである(53)。