『落語名人会 夢の勢揃い』

落語という芸のもつ深みが(私みたいな素人にも)大変よく理解できる。名人たちの人間味にも、格別な味わいがある。とりわけ三遊亭円生の人となりには、何ともいえない魅力を感じた。落語家でも芸を追究する以上は「野暮」であって全く構わないのだ。『円生百席』制作時のエピソード――

思うに円生は、まかせたくないから立ち会い続けたのではない。この人には、信頼できない相手を容赦なく切り捨てるプロの非情があった。円生は、録音テープの中に収まり、自分の肉体と分離した自分の「芸」を解析し、さまざまな実験を施すことに異様な興味を覚えたのだ。桂文楽より三十年も出遅れた晩成の名人は、残り少ない自分の高座をさらに一段でも高みに上げたかったのだ、と私は見る。
「師匠、そこまでやると結果は不自然になるから、このへんで先に進みましょう」
「さいですか。イキは合うと思いますが」
「抑揚がちがうのでつながりません。じゃ、試しにやってみましょうか」
やってみて不自然な結果になれば、円生は納得した。あとは諦めるか、全体をやり直すかの決断だけだ。諦めるとき、円生は、「じつにどうも、この齢をして拙劣(せこ)なもので」と自戒したり、「耄碌爺い」と自分をあざけったりした。
思いのほかうまくいけば子どものように喜んで、作業したエンジニアに無邪気に拍手することもあった。気むずかしく意地悪な面があるという円生のイメージは、ごく浅い関係しかもたなかった人々が作り上げたものだ。もっとも、ほとんどの人とクールに付き合う円生であったのも事実である。(161−162)

円生のこの姿勢は、古今亭志ん朝とはまるで違う。志ん朝は、「レコードはね、残るものでしょ。それがいやなんです。その、残るってことがね。芸ってものは、消える。だからいいんです。あ、いいな……と思っても次の瞬間にはもう消えている。戻らない、残らない。これが芸ってもののいいところなン。…」と言っていた(176)。
でも、この志ん朝の粋な発言の裏にも、屈折した含羞が感じられる。

父・五代目志ん生の“ぞろっペエ”な芸風に憧れながら八代目文楽のような“型”の線で芸を磨いた志ん朝。快活な高座と寡黙な楽屋。興に乗れば大いに論じ、縁なき衆生とは口をききたくない。ゴルフの腕はプロ級、スポーツカーを疾走させた遊び好きと、人知れず励む猛稽古。稽古の虫をさとられまいと装う日常の怠け者ぶり。
たいがいのことは「どうでもいいんだよ、そんなこと」。だけど「どうでもいい、と言ってしまえば世の中はどうでもいいことばっかりですよ。でもそこに、大事だと思う人にとってはとっても大事なことがいっぱいあるン」と力説することもある。
その区別を説明するのは面倒だ。そんなこと、わかる人には言わなくたってわかっている。「わかんないかなァ、そこが」。あとは沈黙。(183)

あとは、甘党で趣味人の柳家小三治が「子別れ」を収録したときのエピソードが興味深かった。また、上方落語には与太郎がおらず、それは江戸落語が階層社会であったためだ、とする文珍の説もなるほどと思った。

落語名人会 夢の勢揃い (文春新書)

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