三たび「グローバル化」について

現在、グローバル化として実感されていることのほとんどは、「国民国家の権限の再画定という課題が浮上してきている」という命題に還元されるのではないだろうか?問題を二つに区分して考えることができるだろう。ひとつは、「国民国家の変質」という内在的問題。もうひとつは、いわゆる「グローバル化」の問題。
まずは、「国民国家の変質」について。傾斜生産方式などに端を発する日本の護送船団方式が(ずっと以前からだが)金属疲労を来たし、新しい政策原理が求められるようになってきた。また、経済成長の時代が終焉したため、高福祉政策が負担過剰となり、「小さな政府」志向が強まってきた。これらを背景に小泉政権は、経済自由主義的政策を取り、それらは概ね国民に好意的に受け取られている。また、これまでの制度原理が「後発近代仕様」であったため、こうした変化の多くは、おそらく必要不可欠なものだったと理解することもできる。
つぎに、いわゆる「グローバルな変化」について。もっとも重要なのは、情報環境の変化である。これによって、国際経済取引がマネー経済化するようになった。また流通経路の合理化により、多国籍企業はますます勢力を拡大するようになっている。これらのことが、「グローバル化」を実感させる生活の具体的変化となってあらわれている。
現在の動向は、「小さな政府」が志向されることによって影響力を増しつつある「グローバル」な変化がますます呼び込まれている、という状況といえるだろう。しかし、「国民国家の権限の再画定」という課題はあくまで「課題」であって、グローバルな変化に対してどのように境界線を画定していくべきかという問題に、明確な答えが存在しているわけではない。たとえば、国家規制を少なくしていくことは必要ではあるが、あまりにマネー経済を無規制に容認したならば、ホリエモンみたいな人が出てくることは明らかである。建築基準を民間委託したら、アネハみたいな人が出てくる。国家と市場のバランス、規制のバランスをどうしていくかということが、現在考えるべき問題としてある。
ちなみに、「新自由主義イデオロギーの拡大」というテーゼでこれらの現象を捉えることは、きわめてミスリーディングだろう。「小さな政府」志向は必然的現象であり、イデオロギーではない。さらに「小さな政府」は「市場化」を意味するが、「市場化」をすぐにイデオロギーだと考えるのも、マルクス主義的前提をつよく反映した誤りといえる。それは、これまでの「国民国家の時代」がはたして市場化と無縁だったのか、と考えてみればすぐに明らかとなる。自明なことだが、国民国家化は、資本主義を効果的に組織化し発展させていくためにこそ必要だったのであり、市場化を効率的にすすめるためには、国民国家化が不可欠だったのである。また、福祉国家化を導いたのは恐慌を避けるためだったし、後発近代国にとって産業統制による経済発展は急務の課題だった。自由主義=市場主義化すなわち悪=イデオロギーという図式は、短絡的である。
要するに言いたいことは、グローバル化というと何か避けがたい変化であるように考えてしまいがちだが、実際には、グローバル化の問題と、国民国家の役割の見直しの問題とを区別して考える必要があるということだ。とりわけ現段階では、グローバルな影響力が強まるとともに、国家の役割が小さくなってきているので、あたかも「国家の役割の縮小がグローバル化によってもたらされた」かのような印象を抱きやすいが、この因果関係は慎重に吟味する必要があるだろう。グローバル化といっても、国家によってそれをコントロールしていくことは必要であり、むしろグローバル化するからこそ、国家の役割を見直していくことの必要性がますます重要になっていくとも考えられる。