グローバル化の続き

以下、質問の答え。

  • 『>「グローバル化」として感じられていることは、もっと細かい指標を用いて、その内容を精査する必要がある。とは、禿同。なのですが。「産業社会化・民主主義化」という趨勢命題が駄目になったというのは、具体的にはどういうことですかね。ある種「バラ色の未来が描けない」とか、そんなイメージですか?』

社会科学はこれまで、自然科学的な実証主義をモデルとしつつ自己規定してきた。自然科学は、ニュートン力学ユークリッド幾何学からの影響を受け、「真なる事実を観察し、そこに真なる法則を当てはめ、論理的に正しい命題を導出する」という公理論的前提を保持してきたのだが(もちろんこのこと自体疑わしい)、社会科学もまた同様に、社会に内在する「客観的で真なる法則」を探究しようと努めてきたのである。それはホッブズの社会理論が、デカルト幾何学からの影響を強く受けていたことを想起すれば明らかだ。
しかし、これらのことは、すべてデタラメである。自然科学の場合であっても、そこでの認識論的前提を疑えば、究極的に客観的な知見などは得られない。ましてや社会科学の場合、観察者自身が観察対象の内部に組み込まれているので、対象と観察者との客観的距離はほとんど保持することができない。社会は無限に複雑であって、そこに真なる法則などは存在しないのである。
ところが、これまで社会科学は、法則定立科学としての自己定義を疑わずにすませることが可能だった。根本的な理由には大きく二つあるが、面倒なので説明しない。ただ最低限いえることは、これまで「近代化論」が依拠してきた社会イメージが、「産業社会を高度化する社会」「民主主義化する社会」という趨勢的変化をベースにしたものであったことだ。それが趨勢的変化であるかぎり、その変化は「法則」であるかのように把握することが可能であった。
しかし、産業化が飽和して後期近代社会になると、「産業化」を軸にした趨勢命題=法則はもはや語ることができなくなった。同時に、冷戦体制が終焉し、民主主義と対立するイデオロギーが存在しなくなると、民主主義「化」を語ることも不可能となった。これによって、社会科学が発見すべき「法則」が何であるのか不透明になった。
もちろん、これは社会から法則が存在しなくなったことを意味するのではない。ほんらい社会科学が企図しえないはずの「法則発見」の不可能性があらためて露わになったということにすぎない。「趨勢命題が駄目になった」ことによって、従来の社会科学がナイーヴに寄りかかることのできた「擬似法則的現象」は、名実ともにどこにも存在しなくなったのである。