『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』(1983)

岡崎次郎著。一週間前、第一書房にて600円で購入。呉先生『犬儒派だもの』でも非常に美しい文章で言及されているが、この値段だったら、欲しい人なら飛びつくんじゃないかな?
何通りもの読み方ができる情報量無限大の内容だが、まずは、旧制高校(大学)のバンカラ気風、知的雰囲気を理解することができる(著者は、明治37年=1904年生まれ。第一高等学校文科甲類入学は大正10年=1921年)。大正デモクラシーのなかに流入しつつあった社会主義思想は、思いのほか牧歌的な感じがする。梯明秀は著者の同級生だったらしい。
つぎに、東亜経済調査局時代の話が面白い。獄中の大川周明によって人事の「遠隔操作」が行われ、「左寄り」が駆逐されるとともに「右寄り」が幅を利かせるようになった。ソ連の国家政策を満洲国の施策に反映させるということもあったのか、右も左もないカオス状態がそこでは自然に生起していた。ダイナミックすぎる。著者は淡々と過ごしているだけなのだが…。左の駆逐工作が終ったあと、作田荘一(のちに満洲国立建国大学総長にもなる)が担ぎ出されるあたりも、個人的にはたまらなく感じた(この点は山口昌男『「挫折」の昭和史』を参照)。
最後は、なんといっても『資本論』訳の顛末である。向坂逸郎訳として出ている『資本論』(岩波文庫)だが、その「下訳」はじつは岡崎が行っている。「下訳」という名の「全訳」である。印税だけは、「下訳」以下の扱いだった。もちろん向坂が人でなしなのである。一番、目に余るのは、大月書店から岡崎新訳『資本論』(国民文庫版)が出されたときの向坂の妨害と恫喝である。金の亡者、権威の亡者。
ということで、本書からは、『資本論』の訳業裏面史、戦後出版史、左翼知識人の生態なども学ぶことができる。好著にして奇書。なお、本書の「文学的味わい」については、ここではあえて触れなかった。(が、ほんとうに味わい深い。この点に関しては名著である。)