乃木の殉死が完成させたもの

『明治大帝』。多木浩二天皇の肖像』も好著だが、図式的すぎる。明治天皇人間性を内在的に読み解くことが、近代日本を思考することとダイレクトにつながることを示した点において、『明治大帝』は多木の作品を凌駕する。
天皇の位置づけは明治以来揺れ続けてきたが、その揺れは近代日本の制度的枠組の模索プロセスそのものであった。明治10年西南戦争で西郷シンパだった明治天皇はそれ以後政務に背を向ける。そうしたなか、侍補たる元田永ザネの影響力が増していく。元田の「忠孝」偏向儒教イデオロギーによって明治天皇は親政運動を試み、それは明治12年「教学大旨」をめぐる伊藤との教育論争に頂点を見たが、伊藤の立憲主義的制度構築によって天皇は政治的に挫折する。しかしこの親政運動の側面は、明治14年の政変(より直接的には竹橋事件)によって、政府が明治維新体制への深刻な不安を抱くなかで(久野収的に言えば)「顕教」として復活した。軍人勅諭教育勅語体制である(軍部においては元田的役割を山県が担った)。
立憲主義としての機構的性格をどのように扶植するか。伊藤の狙いはそこにあった。それは近代日本の扶植ということだ。しかしその機構の定着には精神的な糊付けが必要だった。むろん神政政治の形態もありえた。明治天皇アイデンティティー遍歴もその周辺を巡っている。
だが結局、明治憲法体制においては「明治天皇の神聖化」と「機構としての制度運営」の有機的結合に決着を見た。明治天皇は空虚な精神的存在とされた。その空虚さは一時は権力者を野望した明治天皇にとって、寂しさを伴うものだった。無能の指揮官、乃木希典との結びつきはそこに生まれた。薩長藩閥の恩恵を被った乃木は、その恩恵ゆえにかえって、落ちこぼれとして自責する立場に追いやられていた。大和魂精神主義は乃木の自己合理化として採用されたものだが、明治天皇とともに、乃木も空虚な精神性を身に帯びねばならなかったのである。乃木の殉死は、明治に翻弄された人間の一種の自己完成であった。またそうした「明治の精神性」は、明治が液状化した無方向性に悩まされた時代であったからこそ、その時代性を把握するために是非とも必要とされた観念だった。夏目漱石しかり、森鴎外しかりである。