『南方熊楠』

鶴見和子。好著だった。いくつかメモ。
粘菌研究について、柳田への手紙のなかで語ったこと。

小生は元来はなはだしき癇癪持ちにて、狂人になることを人々患えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様の面白き学問よ始むべしと思い、博物標本をみずから集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また癇癪など少しも起さば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて癇癪をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし。(67)

柳田と南方が絶縁した理由。知り合いの女性の世話を、柳田に頼んだことがあったようだ。

南方の書物には鄙猥なことが多いといわれる。しかし、南方は、四十歳で結婚するまでも、また結婚して後も、生涯妻以外の女性をしらなかったと述懐している。南方の生活をつらぬく滑稽なまでの正直主義を考えあわせると、南方のこのことばを信用できる。みずからの行いがさわやかであったからこそ、自信をもって、おおらかに、性のことについて語ることができたのであると思われる。性について語ることを避けた柳田が、かえって行いにおいて、南方の眼からみればだらしがないことがあったために、後年になって、南方は柳田に絶交状をたたきつけた。

学問的方法論について。この観点から、当時のスペンサー流進化論についても批判を行なった。

ものごとの関係を、具体的事物から離れて論じることは、空理空論であると南方は考えた。具体的事物の中にある特定の関係を自分で発見してゆき、そうした発見を楽しむことがかれにとっての学問であった。具体的事物を捨象した抽象的理論構築を、かれは目ざさなかったのだということができる。「南方曼荼羅」は、かれの理論体系のモデルであるが、それは抽象的仮説命題の体系をともなわない、絵図(モデル)なのである。それは、その絵図からはみ出したところに、宇宙の全体像が実在するという信念――宗教――にささえられている。モデルが科学的智識の原型を示すとすれば、科学はつねに実在――宗教によってそこにあると信じられる――の一部しか把握することができない。しかし、つねに、「やりあて」ることによって、限りなく、実在に近づくことはできる。南方の科学論の前提は、存在についてリアリズムであり、認識について確率論的である。……(220−221)

方法論については、真言密教とも密接な関係があるようだ(土宜法竜宛て手紙)。
イギリス(大英博物館時代)での活躍、孫文との交流なども圧巻。民俗学関係では「邪視」の話が面白かった。