『ことばがひらかれるとき』(1975)
竹内敏晴。再読。
「身体」といった直接性・本質性を称揚する危険を感じつつも、やはりこれは名著ではないかと思う。
自己を語ろうとするとき、私の目は内へ向き、闇と混沌をのぞきこみ、形のないものに形を与えようとしてあがく。だが、物語を物語るとき、私は自己の記憶をたどり、イメージを充実させ、相手の理解の水準をはかり、その世界に入ってゆき、そこへイメージを再構築する。努力はいわば主に外に向かうのである。折口信夫によれば、歌うとは訴えることであり、物語るとは他者を感染させ支配することだというが、自己を語るとは、結局訴えること、叙情であり、だから恥ずかしいことであり、それをいかに対象化するかに、デカルト的に語ろうとする努力は傾けられた。これに反して、物語るとき、自己は物語のイメージに托されて運ばれ他者に手渡される。自己はむき出しになることはない。自己とはむき出そうとすればかくれ、光を当てれば白けてしまうものであるかもしれない。(68)
関西から東京へ出てきて、俳優になっている人は多い。もちろん「標準語」はマスターしている。テレビ・ラジオなどのナレーションもキチンとしゃべるし、ホームドラマふうの会話などに不自由することもない。しかし、劇のある次元で、日常の意識の底にある何かが、行為の裂け目から、激しく噴き出してくるようなとき、標準語のアクセントと語感を維持しようとする意識的努力は、無意識の領域で動く衝動を妨害する最大の敵と化す。必死になってことばを生かそうと苦しめば苦しむほど、ことばは金属の延べ棒みたいに単調に輝かしく響くばかりになる。内から噴き上げるものに身をまかせるとき、かれのことばは突然生まれ、故郷の言葉に変わる、そしてすさまじく波うち始める。また、はじめから生まれ育ったくにのことばで語り歌うとき、かれはのびのびと、自在に発展し、意識下のものが潮のようにかれをつつむように見える。(226)
「ことばが、本来、意識以前の「共生」の世界=混沌において成り立っている、という事実は、ことばの機能、とくに喚情性の機能に大きくかかわり、集団の「共生」の表現としてのことばのリズムを生み出すもとになっている」(260)。この部分については、これを参照→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051223。また、浜田寿美男さんの研究なども参考になる。
- 作者: 竹内敏晴
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1988/01/01
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