福祉国家の再復興

社会科学はギリシャのポリスとともに成立し、まずは「政治的なるもの」を探究する政治学が誕生した。しかしポリスでは残余範疇であったオイコス領域が拡大してくると、「経済的なるもの」に対する探究、すなわち経済学が誕生してくる。では「社会的なもの」、社会領域はいつどのようにして成立したのか。著者によれば、それは19世紀の産業社会における「貧困問題」(ポーペリスム)を通じ、露出してきた領域であるという。
著者の見取り図を私なりに(かなり大胆に)まとめると次のようだ。国民国家は「契約」「市場」「保険」を通じて、「政治的なるもの」「経済的なるもの」「社会的なるもの」の重なり合う領域を形成してきた。「保険」は産業社会のなかで人々が見通しがたいリスクを社会的に共有する装置だった。それは世界大戦を契機に国民国家に徐々に浸透してきた観念である。国民国家はある程度の規模の国内市場を保護することで資本主義体制を整えようとしたため、国内の貧困問題の社会的解決を通じて、「経済的なるもの」がもたらす「社会的なるもの」としての問題を「政治的」に解消する枠組みを整備したのである。
だが1990年代になると、「経済的なるもの」と「社会的なるもの」との乖離が進む。その要因は(私の見るところ)3点だ。
第一に、人口構成の変化による福祉国家体制の行き詰まり。世代間の受益=負担構造の不均等な歪みが明らかになっている。第二に、グローバルな経済秩序を背景に、国民国家にとって国内労働市場が(相対的に)保護すべき対象でなくなったこと。具体的には「労使間平等主義者主義」の衰退がある。国際競争にさらされる大企業にとっては、労働賃金のコストを引き下げるために正規社員の雇用はますます難しい。そうしたなか非正規雇用労働者が労働組合の保護を受けずに排除されていく状況が生じている。第三に、リスクの透明性の増大。リスクは、いつ誰がどこでそれに見舞われるのかが不透明なため、「保険」という装置によって社会的に担保されてきた。だが遺伝子情報をめぐる科学技術による進展は、それらリスクの分布をある程度まで明らかにしてしまう。そのときリスクの社会的担保という観念がどこまで延命できるのか。加えて、正規雇用/非正規雇用などの社会的分断によるリスク要因の不均等分布も、リスクの社会的担保へのためらいを生じさせる要因となっている。
このように「経済的なるもの」と「社会的なるもの」が内的連関性を失い(それは「保険」に対する信頼の消失と相即的な現象だ)、それとともに「政治的なるもの」が両者の架橋の道筋を見失ってしまっている。これが現在の問題状況だ、と著者は把握している(ように思える)。
では、新たな連帯の哲学はいかにして可能であるか。
著者は「経済的なもの」と「社会的なもの」との乖離を、哲学的次元で市民(シトワイヤン)が社会契約を結びなおすことによって、つまり「政治的なもの」の領域を大幅に復権させることによって、再び埋め合わせようと試みている(ように思える)。
そこで著者が注目するのがRMI(社会参入最低所得)である。著者は労働を自己の尊厳にかかわる不可欠な営為として捉え、RMIの給付(国家からの給付)と労働を通じた社会参入(市民からの義務遂行)を「算術的」に均衡させようと試みている(と、私は読んだ。これはRousseau的社会契約の焼き直しだ)。
グローバル化に対抗し、国民国家という水準でふたたび市民性の内実を高めていくべきだとする論調には、深く共感できる(ちなみに著者は、国民国家は排他的であってはならないと強調している)。しかし、かなり無理やりだなぁとも感じる。政治的次元の復権って、またぞろギリシャのポリスかい。ファシズムの匂いが漂うのは、RMIの給付を受けるかぎりは愚行権が許容されないからだ。本人も自覚しているようで197ページあたりはその弁明が述べられている。でも「保険」のところは良かったよ。